私達には、傲慢の罪がある。

私達は、本来、価値のない、立派とは言えない、資格のない罪人に過ぎないのに、

何かしら「あいつと違って、価値のある、資格のある人間」と思う傲慢さがある。

いつもそうではないだろうが、傲慢の罪が忍び寄ってくる。

残念ながら、私にもその傾向がないとはいえない。

 

放蕩息子の兄に、その傾向がうかがえる。

「自分は、これだけあなた(父)のために、一生懸命働いてきた。一方、何もしていないあんな人(弟)のために、あなたは、気前よくしてやっている。私には、何もしてくれないのに。」

本当に、自己中心的で、嫉妬深い。

 

1時間しか働かない者が、1デナリもらったにもかかわらず、朝から働いても、1デナリしかもらえなかった労務者の不満に似ている。

その文句に、とても臨場感がある。分かるような気すらしてくる。

マタイ20:12

言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

 

私は、大変な苦労をしたのだと・・・。

放蕩息子の兄の不満に似ている。

 

しかし、主人の回答は、見事で痛快である。

 

20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。

20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 

神様は、とても気前がいい。みんなを愛している。

放蕩息子もその兄も愛している。

1時間しか働かなったものも、懸命に頑張った人も、もちろん愛している。

神の愛は一貫している。

 

しかし、自分を誇ろうと思った時、他者と比較するプライド、傲慢さがもたげてきた時、神様は私達の頭をたたいてくれる。

ねたみや嫉妬を持つ人は、幸せにならないのだろう。

私達も、つまり鷹揚(おうよう)に、他者の幸せを共に喜ぶ気持ちを持ちたいものである。

 

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