パウロは、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように、主も定めていると語ったのちに、自らの誇りについて次のように言います。

1コリント9:15

しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は、自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだ方がましだからです。

 

そして、福音を宣べ伝えることは神からゆだねられていることであり、どうしてもしなければならないことで、それは自分の誇りにもならない。そして、こう語ります。

1コリント9:18

では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に求めないことなのです。

 

パウロは、無報酬で働いている誇りについて、「だれかに奪われるよりは、死んだ方がましだからです」とまで語るほどの、強烈な誇りの意識を、持っている。

 

私は、前日ブログに書いたように、この8年半、無給・無報酬で働いているので、パウロの認識を、ある程度まで共有している。

無給与・無報酬で働くこと

 

ある程度までという表現は、パウロや同じく無報酬で神からのミッションを遂げたマザーテレサのレベルまでは、いかないだろうが、という意味である。

つまり彼らには、この世的な思いが全く感じられないが、私にはある。そのレベルの違いである。

 

しかし、彼らの思いはわかる。

私は、神からの受け取った直接のミッションを行っていると確信している。その場合の報酬について、根拠を聖書に求めた。昨日書いたように、なんとか、過去の貯金で、年金受給までは、暮らしていけそうなので、夫婦の常勤にかかる給与・報酬を求めなかった。

年金も、私は52歳で早くに会社を辞めているので、大きな金額にはならないが、シンプル生活に慣れてきたため、生活には問題ない。

子供も二人おり、老後の安心をはかるために、「少し、もらってもよいのでは」と頭をかすめたことも正直あったが、継続することがパウロ同様、私達夫婦の誇りであり、活動のモチベーションになっている。

 

私は、この報酬のことについて、聖書にはっきりと書かれていることに、神の思いが伝わってくる。誰かが、言っているということではなく、聖書に、しかもパウロを通じて、語られている。

パウロも書かざるを得なかったのだろう。神の意図である。

ヘンリー・H・ハーレイの新聖書ハンドブックにこう解説されていた。

「パウロを批判する者たちからの異議の一つは、パウロがコリントでの働きに対して報酬を受け取らなかったことである。コリント教会の指導者たちは、福音を宣べ伝える者が福音の働きで生活できることをパウロに確証してもらいたいと思っていた。・・・・・パウロは、可能な限り報酬を受けないで伝道するすることが彼の生活原理であり、命じられたこと以上の事をなしていると考えることが、大きな個人的満足を与えていた。さらに、給料をおもな関心事とする偽教師たちに悪用される恐れのある手本を示したかった(Ⅱコリ11:9~13)。」

 

個人的な満足(誇り)を持っていたパウロ。妥協しない潔癖症とも言えるパウロ。自分を誇る人間的なパウロ。

義を唱えながらも、心の深いところで、人間がひそかに抱くこの世的な思い(金や名誉)。

人助け、福祉と言いながら、お金を主な関心事にしている事業運営者は、実はとても多い。

私が、障がい者の支援事業を立ち上げた理由が、これらの関係者への義憤であった。

これでは、障がい者が、犠牲になっている。私は、真に障がい者の為の事業所を立ち上げようと思った。彼らとは違う、という意識が強い。

私達が無給で働いていることに、前記のように違和感を持たれる方もいる。

自分たちの人生観と会わないからだと思う。自分を含め多くの人が、有給で働いているので、そのようであってほしいと思うのであろう。

誤解のない為にいうが、私は、無給を促がしているわけではなく、有給を否定するものではない。もらって当然なのである。

逆に、特に従事されている方の給与水準は、もっともっと高めるべきだと思い、その為の具体的努力を私もしている。

問題にしているのは、創業者、経営者である。彼らの真の目的は何かということである。

もしも、彼らに少しでもゆとりがあるのなら、その余力分を、当事者および従業員に振り分けてもらいたいと願っているものである。

その報いが、大きいのである。

 

この問題に限らず、クリスチャンも教会も、いつの間にか、みんながそうしているからといって、それに安心し、神の思いから、はずれている場合がないだろうか。

聖書で、パウロが語ったのは、まさに今日的問題でもある。

 

普通、自分を誇ることは、聖書的でないと言われているが、あのパウロが、死んだ方がましとまで宣言し、その生きざまを神が認めている。

パウロは、結局、神だけに思いを集中し、そして神からの報い、「よくやった」と言われるように、ベストを尽くしたのだろう。

私は、パウロの人間的な自負心が好きで、共感する。また、神がそういう生き方を、「それは、あなたの決めること」と言いながら、最大限喜んでいると思う。

 

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