昨日のブログで、あまり意味のない祈りよりも、行いの重要性について書きました。
そこで、思い出したのは、ビクトル・ユーゴーの「ああ無情」(レ・ミゼラブル)です。
この大作は、私にとって、少年期のとても大切な本でした。
私は、小学校の時に、親から買ってもらった本が2冊しかありませんでしたが、そのうちの一冊が、小学校4年生ごろに買ってもらった「ああ無情」でした。
この分厚い本には、子供心に、深い感動をもって、何度か読み返したものでした。
感動が、ずーと心に、残っていました。
特に、一番印象に残り、子供心にジーンときた処は、司祭のジャン・バルジャンへの対応です。もう55年前のことで、本は手元になく、少し前に見た映画(とてもよかった)にそって書きますが、内容は、記憶に残っている原作通りだと思います。
軒先で野宿していたジャン・バルジャンを、司祭が修道院に招き入れ、温かい食事を提供し泊まらせる。しかし、彼は、恩知らずにも夜間、銀食器を盗んで逃げる。
しかし彼は、すぐに警察に捕まり、修道院に、司祭のもとに突き出される。
感動の山場はここからである。
司祭は、警察に「これは、彼にあげたものですよ。」という。
唖然とする彼。いぶかしがる警察。
そして司祭は微笑んでさらに言う。
「彼は、あわてていたようで、彼にあげた一番値打ちのあるものを忘れていったようですね。
銀の燭台も差し上げたのに。」そして、彼に燭台を差し出す。
司祭の心に打たれた彼は、瞬間的に心を改める。
子供心に、司祭の対応に、いたく心を打たれたことをよく覚えている。
司祭とはすごい。すごい人がいるものだ。そう思った。
少年期に、無償の愛、やさしさ、あわれみの気持ち、何が人間にとって、一番大切かを教わった気がしています。
この本を、何故か読ませてくれた、今は亡き両親に感謝します。
心が形成される少年期に、このような聖書的な良書を読む経験を、今の子供たちにも是非、薦めたいものです。
さて、この司祭の対応は、今日的には、どうでしょうか。
ホームレスが、軒先にうずくまっていたら、あるいは、訪ねてきた場合どうするでしょうか。
教会には、専用の宿泊施設はなく、とてもやっかいなことでもあり、多くの教会では、リスク管理上、難しいと考えるかもしれません。
しかし、先ずは食事の提供等は、最低限行う必要があると思います。
問題は「残念ながら、対応ができない。」、そしてさらに問題のある発言が「何もできないが、あなたの為に祈ってあげましょう」であると思う。
それでは教会に挫折してします。
もしも、教会や牧師が、本当に極貧の困窮状態で、「残念ながら、あなたに申し訳ないが、今、分け与えるものが、何もありません。その代わり、あなたの事を、神にお祈りします」と真剣に祈る時、その祈りを神はお聞きになり、備えられるだろう。
大切なのは、そのような方が来られる可能性が高いので(つまり、教会に行けば何とかしてもらえると思っている方も多い)、大切なことは備えだと思う。
シェルターを持っている支援団体や役所との連携・ネットワークをあらかじめ、築いておくことだろう。(役所だけでは、土・日対応が困難。)
私の生活相談サポートセンターにも、専用のシェルターがない為、泊まらせてあげることができないが、食事を提供しながら(食糧は常時ストックしてある)、事情を聴き(その後の対応の事があるので、事情はよく聞いておく必要がある。)、ネッワークがある為、ほぼその日から、どこかに泊まらせることができる。
また、私達は、全国のホームレス支援ネットにも加入している為、時々北海道外からの電話で、「〇〇市でホームレス状態です。」のSOSが入る場合、その県にある支援団体に電話し、緊急対応を依頼し、数時間後、「今、シェルターに入りました」と連絡をいただき、ホッとすることもある。
逆の場合は、私どもに連絡ください。(生活相談サポートセンター、080-3296-2708(常時私か妻が保有))
ジャン・バルジャンの時とは、環境は違うが、ポイントは、当人は、困っており、事務的ではない、温かい対応、安心感の提供が、必要だろうと思う。
そしてその為の具体的な連携等の準備・備えが大切だと思う。
もし良かったら、一日一回、感謝です。