クリスチャンになる前、「人間と何か・・・」を考える為に、カナダでロングステイしていた時のことである。
当然の事ながら、周りは外人である。
「外人とは、どのように考えているのだろう」と言うのも、大きな関心事で、海外に住んでみたい大きな理由であった。
カナダ人等のいわゆる西洋人との違いをはっきり感じたのは、個人主義と集団主義の違いである。私自身、若い時に個人主義的感覚を相当に持っていると思っていたが、生れた時からその環境で育った人との違いを痛感した。
個人主義が根付いた社会で生きているためか、彼らは、イエス又はノーがはっきりしており、あいまいな返事は誤解を生むことになる。
最初のカナダ訪問時、ホームステイ先の夕食に、ムースと呼ばれるへら鹿の煮込みが出され、「おいしいか。」と聞いてきたので、本当は、そうは思わなかったが、傷つけてはいけないと思い「おいしい。」と、ついつい言ってしまった。
すると次の日から連日、同じメニューが出される。数日後「変えてくれないか。」と要望し、理由を話すと、「最初に、はっきり言ってもらいたかった。」とのことだった。
英語は、主語の次に述語がくるために、結論が先にあり、次にその理由が述べられる。日本語は、あれこれと理由が説明されたのちに、やっと結論がくる。
文法の違いが影響することは、頭の中では理解していたが、違いをはっきりと実感した。
しかも、彼らは、強調すべきところは、アクセントを強める。一方、日本人は抑揚に乏しい傾向がある。躊躇していると、「イエス、オア、ノー?」と怒るように、迫ってくる場合もあり、国民性の違いを知る。
日本人は、イエスとノーの間に、グレー部分があることをよく認識している。それは、良いことでもあり、寛容の精神や日本独特の論理性では説明できない、わびさびの精神につながっていると思う。
しかし、そのために、あいまいな表現になり、誤解される場合があるので、状況を考えて対応する必要がある。
クリスチャンになって、クリスチャンの国籍は天にあり、違いをあまり考える必要はないと思うようにもなったが、その違いを最近、また感じる。
キリスト教が、西洋文明を通じて入ってきたのではなく、もしも、東洋を通じて入ってきた場合、感じは相当違うものになっていたのかもしれない。
私は、長い葛藤の末、神の絶対性を知らされ、イエスキリストに完全にギブアップして、クリスチャンになったものの、聖書理解には、若干の違いが伴うのかもしれない。
受け止め方、感受性の違いが確かに存在する。
従って、日本人への福音を述べ伝えるにも、神の本質的なものは、曖昧にはできないものの、伝え方には、日本人の感性にそった工夫が求められると思う。
そのことを整理し、伝えたいねらいもあり、「死ぬまでに必ず、聖書を読んでおく必要性」を書いたつもりである。
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