開所半年、大火にて類焼する。
伊東玄朴宅(蔵前橋通りと昭和通りの交わる台東一丁目交差点付近)が
臨時の種痘所となりました。
その後、玄朴らが(蘭方医術者らが)奥医師となる。
種痘所が玄朴宅南側に再建されました。
翌年には幕府の援助を得て、幕府官立の種痘所となった。
おおまかに、
種痘所→医学所(幕府)→医学校(明治政府)→大学東校→東京帝国大学(医学部)
の流れらしい。
明治になり、医学校として和泉町にあった伊勢国津藩藤堂家上屋敷(跡)に移転。
現在地は
りそな銀行から三井記念病院付近まで
病院入り口の記念碑によると、帝国大学医科大学第二医院跡地に開院が始まり。
息子の出産では大変お世話になりました。
東大系列の先生が多かったなあそのためだろうか なかろうか