最近の私のテーマは、表現。

「表現ってなんだ???」

ってずっと考えてる。

 

 

 

その発端は、

ブログに何を書いたらいいか

分からなくなったこと。

 

 

分からないってことを

認めたくなかったんだけど、

認めざるを得なかった。

 

 

自分の言葉で

自分のことを語る。

って、何???

 

 

ずーっとそのことについて

考えを巡らせてた。

 

 

 

 

「ブログに何を書けばいいか分からない」

この現象を分解した。

 

 

“ブログ”に対して

私はきっと何か

定義づけをしてる。

 

 

そしたら、

・オチが必要。

・自分が読みたいと思う面白さが必要。

その思いが

ブログを書けなくさせていた気がした。

 

 

でも私、それはそうだと思っていてね。

オチのないブログとは

何が言いたいか

わからないブログのことで、

私はそんなブログを読んでも

きっと面白いとは思わない。

 

 

 

 

今までは結構、

(どうオチをつけようか?)

って考えていたりしたけど、

そもそもそれが違ってて、

オチってもっと自然に

つくものなのかもしれないって

そう思えてきた。

 

 

オチって、肚落ちのことでしょ?

肚落ちって、

ぐちゃぐちゃだったアレコレが

収まるところに

収まる感じじゃないのかな。

 

 

それって、自分が感じたいろいろなことを

細かく細かく分解して観察する

集中力

あってこそなんじゃないのかな。

 

 

八木さやちゃんのブログが

毎回毎回外すことなく

ツボを押さえてくるのは、

自分に対する集中力あってこその

あのオチなんだと思う。

 

 

ブログどうこうではなかった。

もっと前段階だった。

少なくとも私にとっては。

 

 

 

 

 

それでそれで、もう一つ。

 

自分がつけたそのオチって、

その人の哲学になるよね

 

 

最近、哲学者のことが

いっぱい出てくる本を読んでいて、

それで思った。

八木さやちゃんとかハッピーちゃんは

哲学者なんだって。

 

 

哲学者って

確かにいろいろ学んでいる人を

言うのかもしれないけど、

「私はこうだと思ってる」を

突き詰めた人たちなんだなって

私は思った。

 

 

そして、その源にあるのは

「幸せに生きたい」っていう

人間としての普遍的欲求。

 

 

自分が幸せに生きるために、

自分に起こったいろいろを

観察して、分析して、

「こうな気がする」って立てた仮説を

自分にとっての事実として

「こうです」って語ってきた人たち。

 

 

それやるのに

知識も能力もいらないね。

特別な経験も要らない。

ほんっとに要らないんだって、

なんかはっきりと思ったよね。

 

 

自分にとっての真実を

自分で見つけようと思ったよ。

ていうか、きっともうあるんだよ。

誰にも○や×をつけられない

私にとってだけの真実を

言葉にしていこうと思った。

なんか、

できるような気がした。

 

 

 

 

自分が表現不足だって

分かっていたけど、

じゃあ何をどうすることが

「表現」なのか、ずっと分からなかった。

 

 

きっとそれは、

私にとっての真実

つまり、私自身の哲学を

言葉にするってことなんだ。

 

↑私にとっては

この言い方の方が分かりやすいキラキラ

 

 

 

 

自分の「表現」も「哲学」も

特別なものじゃなくていい。

 

 

それは、結果的に

誰かが言ってることと

同じことなのかもしれない。

 

 

でも、誰かが言ってることを

そのまま自分の言葉として

自分に取り入れても、

それはその人の言葉だから

いつまでたっても

力強さは生まれない。

 

 

自分の中から生みだすことでしか

力強さは生まれないんだ。

たとえ結果的に

誰かが言ってることと

よく似ていたとしても、

自分の肚を通ってきた言葉は

全部が唯一無二。

 

 

そう思ったら、

他の人の発信を見ることも

全然違う意味合いをおびてくるキラキラ

(これはまた書きます)

 

 

わわわ!

なんか近づいてきたーラブ

 

 

 

 

憧れの人の言葉を

浴びっぱなしじゃ意味がない。

 

 

その言葉に共鳴しているものは何か。

それは自分の中に確かにあるもの。

そこを頼りに自分に潜る。

 

 

観察力。集中力。

誰しも、自分だけの哲学を持っている。

 

 

 

 

 

 

 

乾 宏恵