家族以外の人となかなか話をする機会がない環境の中で、別に世間から取り残されているとも思わないけど、
自分自身の考えとかが発展しない、またはある意味偏った考えをしているかもしれないと思ったりもするのです。
韓国で暮らしていていいことは私は韓国人でないので、韓国の習慣や考え方と違っていてもそれは当たり前で別にそのことに対して批判を受けたりしないことです。
だから好き勝手に自分の考えを主張をしても変だと思われないのです。
また、日本人としての常識から逸脱していても日本に住んでいるわけではないので誰からも干渉がありません。
ある意味、外国で暮らすということは自分自身でいられる、自由で生きられるような気がしています。
日本に住んでいたら、他の日本人と接するとき日本の常識から外れたことをするとやっぱり変な人と思われたりして、それが嫌なので無意識に日本の常識という枠の中で生きようとしていてそれが自分にとって窮屈だったりするんです。
だから日本を離れて日本が恋しいのに、日本にいた時の窮屈感みたいなものから解放されている今の状態からも離れたくないというすごく矛盾した思いを持っています。
この感覚どなたか理解できる方いるでしょうか?
人に合わせて生きる必要がないということでしょうか?
日本に住んでいたってそれは可能なのかもしれませんが、学生時代、社会人時代の私はある意味とても周りに合わせて生きていたような気がします。
私の母なんか見ているとその典型です。いつも人に気を使って、変に思われないように一生懸命気配りしながら生きているように思えました。
そんな母を横で見ながらもっと気楽に生きたらいいのになんて思っていましたが、私自身だって自分の生きる枠の中ではそうだったのかもしれません。
それが自然でなくて、どこか自分に自信が持てなくて、人から批判されたりするのにとっても敏感で、だからいろんないじめ(集団的ないじめではありませんでしたが)に近いことも経験することになったのかもしれません。
統一教会に入教して兄弟姉妹と出会って、いろんな活動も一緒にしたけど、そういうものも全部含めてすごく楽しい時間でした。
今思えば。
いろんな環境の中で活動されているからみんながみんな楽しかったとは言えないかもしれませんが、私は教会で過ごした数年間、とても楽しい思い出ばかりです。
出会った兄弟姉妹はみんな本音で話しができて、分かり合えている感があって、自分自身でいることができるそんな環境であったかもしれないと思うのです。
教会を離れて元シックとしてブログを通していろんな方と交流(?)してきましたが、どうしても教会のマイナス面をシェアすることが多くなるのですが、あの時の私たちはある意味青春だったんだなって思います。
人生の目的が自分自身の魂の向上ということにあるなら、み言葉を知って、神様という存在を知って、それまでの自信のなかった混沌とした自分の心の中がどんどん愛で満たされていくような感があって、ワクワクしたそんな体験を通して私は自分の魂の成長というものを確実に感じることのできた時代が統一教会の中にありました。
私の所属していた教会がノルマのない、ちょっと特別な環境と、年の近い気の合う姉妹たちがいたからかもしれません。
「行きは良い良い帰りは怖い」であったかもしれませんが、抜け出る時の私はもう自分というものを全て失った抜け殻のような状態でした。
あんな苦しいことはめったに体験できることではなかったでしょう。
でもあの苦しい道を通らなければ、一度入ってしまった統一教会というカルト集団から抜け出ることができなかったのだと思うと、すべてはやっぱり神様の導きであったのかもしれないと、宗教を超えた神様あるいは集合エネルギーという存在に感謝の思いをお返ししたいと思っているのです。
今も現役のシックたちは楽しい教会生活を送っているのでしょうか?
教会の兄弟姉妹たちはある意味とても気の合う仲間たちでした。懐かしい思いしか今はありません。