私は前稿「戦国大名とヤクザ――暴力から生まれる『公』、言論から生まれる『公共』」で、暴力によって秩序をつくる〈公〉と、人々が言葉を交わすことによって生まれる〈公共〉について考えた。

その文章を書いた直後、偶然、一つのニュースが目に留まった。

 

では、その〈公共〉を実際に支えているものは何なのだろう。

 

そんなことを考えさせられる出来事だった。

 

一人のラッパーが、ステージから「Free Palestine」と訴えた。

そして、そのラッパーがツアーから外された。

ここまでなら、政治と音楽をめぐってこれまでも繰り返されてきた論争の一つとして終わっていたかもしれない。

しかし、私が強く心を引かれたのは、その後に起きたことだった。

フィニアス、アーロン・ロウ、ベオガ、ルーカス・グラハム。

エド・シーランの米国ツアーに参加していた、あるいは参加予定だったアーティストたちが、マックルモアの降板後、相次いで出演を辞退したのである。

彼らが示したものは、単なる「賛同」ではなかった。

自分自身の出演機会を手放すという、不利益を引き受けての〈連帯〉だった。

ここから、一つの問いが生まれる。

 

もし同じことが日本で起きたら、どうなるだろうか。

 

だが、問いをそこで止めてはいけない。

「アメリカ人は自由を尊重するが、日本人は同調圧力に弱い」。

そんな単純な「日本人論」にしてしまえば、この出来事から本当に考えるべき問題を取り逃がしてしまう。

問うべきなのは、もっと別のことである。

 

なぜ日本では、政治的発言をした人への〈連帯〉が成立しにくいように見えるのか。

 

そして、その奥には、さらに根本的な問いがある。

 

そもそも〈自由〉は、何によって支えられているのだろうか。

 

「Free Palestine」の後に起きたこと

2026年9月4日、ニュージャージー州のメットライフ・スタジアム。

エド・シーランの米国ツアーで前座を務めていたマックルモアは、ステージからパレスチナへの連帯を表明し、「Free Palestine」と訴えた。

その後、複数の会場が、マックルモアが出演するのであれば公演を受け入れないとの意向を示した。ツアーの興行主は、残る米国公演から彼を外すことを決めた。

後にエド・シーラン自身も、これは自分の決定ではなく、興行主と会場側による決定だったと説明している。

もちろん、この出来事を単純な「言論弾圧」の物語として描くことには慎重でなければならない。

マックルモアを批判する側は、今回の発言だけでなく、過去の言動や表現も含め、反ユダヤ主義への懸念を示している。マックルモア自身は、イスラエル政府への批判とユダヤ人への敵意は別のものだとして、そうした批判に反論している。

また、米国憲法上の「表現の自由」は、原則として政府による言論規制から個人を守るものであって、民間の興行主や施設所有者に、あらゆる表現者へ舞台を提供する義務を課すものではない。

だから、この事件については、二つの問題を分けて考える必要がある。

 

マックルモアの主張をどう評価するのか。

 

そして、

 

その主張をしたことを理由として、舞台から排除することをどう考えるのか。

 

この二つは、同じ問いではない。

そして今回、後者の問いを行動によって突きつけたのが、他のアーティストたちだった。

マックルモアが外されると、フィニアス、アーロン・ロウ、ベオガ、ルーカス・グラハムが相次いでツアーから離脱した。

それぞれの理由は完全に同じではない。

しかし、その行為には一つの共通点があった。

 

「一人が排除された後も、何事もなかったかのように自分だけその舞台に立ち続けることはしない」

 

という態度である。

ここに、「支持」と「連帯」の決定的な違いがある。

 

「私はあなたの意見に反対する。しかし……」

ここで、よく「ボルテールの言葉」として紹介される、あの有名な一節を思い出す。

 

“I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.”

 

「私はあなたの言うことには反対だ。しかし、あなたがそれを言う権利は、命をかけて守る。」

 

実は、これはボルテール自身の言葉ではない。

1906年、英国の作家エヴリン・ベアトリス・ホールが『The Friends of Voltaire』の中で、思想家エルヴェシウスの著作が弾圧された際のボルテールの態度を表現した言葉である。

しかし、その由来を知ると、この言葉はむしろいっそう興味深くなる。

ボルテールは、エルヴェシウスの著作に賛同していたから、その自由を擁護したわけではなかった。

その著作自体には批判的だった。

それでも、その本が弾圧され、焼かれることには抗した。

 

「あなたの意見に賛成だから、あなたを守る」のではない。

「あなたの意見には反対だ。それでも、あなたがそれを語ることのできる社会を守る」。

 

自由というものの難しさは、まさにここにある。

自分と同じことを言う人間の自由を認めるだけなら、自由という原理はそれほど必要ではない。

自由が本当に試されるのは、

 

自分が間違っていると思うことを語る人間の自由を、それでも認めることができるか

 

という場面なのである。

 

連帯とは「同じ意見になること」ではない

このことは、〈連帯〉について考えるうえでも重要である。

私たちはしばしば、連帯を「同じ意見を持つこと」だと思ってしまう。

しかし、本来の連帯は、それほど単純ではない。

私はあなたとすべての問題について同じ意見ではない。

あなたの言葉遣いに疑問を持つこともある。

あなたの政治的主張そのものに反対しているかもしれない。

それでも、

 

「あなたがその意見を述べたという理由によって公共的な場所から排除されるなら、それはあなた一人の問題ではない」

 

と考える。

なぜなら、今日あなたを排除することのできる力は、明日には私を排除することができるからである。

だから連帯とは、同質性から生まれるものではない。

むしろ、

 

異なる者同士だからこそ必要になる関係

 

なのである。

そして連帯には、しばしばコストが伴う。

自分には何の不利益もなく、「応援しています」と書くだけなら比較的容易である。

しかし、出演機会を手放す。

仕事を失う可能性を引き受ける。

取引先との関係が悪化するかもしれない。

自分まで批判されるかもしれない。

それでも他者の隣に立つ。

そこで初めて、連帯は単なる「共感」から、公共的な行為へと変わる。

 

日本で同じことが起きたら

では、日本で同じような出来事が起きたら、どうなるだろう。

仮に大規模な音楽イベントで、ある歌手が戦争や人権問題について政治的な発言をしたとする。

その発言が問題視され、スポンサーや会場側からの要請で、その歌手が出演できなくなった。

もちろん、

「日本なら誰も声を上げない」

と決めつけることはできない。

日本にも政治的・社会的問題について発言してきた音楽家、俳優、芸術家はいる。

だから、「アメリカは自由、日本は沈黙」という図式を描くつもりはない。

ただ、興味深い研究がある。

2026年、岡田亜朱、稲増一憲の両氏は、日本で著名人が政治的発言をした場合、人々がどのように反応するかを実験的に調べた。

その結果、同じ政治的内容であっても、発言者が著名人である場合には、そうでない場合より否定的な反応を受けやすいことが示された。

もちろん、一つの研究だけから「日本人は政治的発言を嫌う」と一般化することはできない。

しかし、私たちが日常で耳にする、こんな言葉を考える材料にはなる。

「歌手は歌だけ歌っていればいい」

「政治を持ち込むな」

「観客は政治の話を聞きに来ているわけではない」

ここで注目したいのは、政治的発言の内容への反論ではない。

「その意見は間違っている」ではなく、

 

「そもそも、あなたは政治について語るべき人ではない」

 

という反応である。

ここには、民主主義を考えるうえで看過できない問題が潜んでいる。

 

歌手である前に、市民である

歌手は歌う人。

俳優は演じる人。

スポーツ選手は競技する人。

教師は教える人。

会社員は会社で働く人。

それぞれに社会的な「役割」がある。

もちろん、役割があること自体は何も悪くない。

問題は、その役割が、その人の〈市民〉としての資格よりも前面に出るときである。

「あなたは歌手なのだから政治について語るな」

という言葉の背後には、

 

「あなたは一人の市民である前に歌手である」

 

という発想が潜んでいる。

しかし民主主義社会では、本来逆ではないだろうか。

歌手である前に、市民である。

俳優である前に、市民である。

会社員である前に、市民である。

政治家であろうと、教師であろうと、農業者であろうと、芸術家であろうと、一人ひとりが社会について考え、語る資格を持っている。

もちろん、その発言は批判されてよい。

反論されてもよい。

間違っていると思えば、その間違いを指摘すればよい。

しかし、

 

「あなたの職業の人間は政治について語るべきではない」

 

ということとは、まったく別の問題なのである。

 

アメリカを理想化しない

ただし、ここで、

「アメリカでは自由な市民が堂々と政治について発言するのに、日本では黙っている」

という物語にしてはいけない。

アメリカでも、著名人の政治的発言には激しい反発がある。

今回の出来事そのものが、それを示している。

マックルモアは批判を受け、複数の会場が出演を拒み、最終的にツアーから外された。

今回の出来事の興味深さは、

 

アメリカには抑圧が存在しないことではない。

 

そうではなく、

 

一人が排除されたとき、それに対抗する別の力が社会の内部から立ち上がったこと

 

にある。

会場所有者には経済力がある。

興行主には契約上の力がある。

スポンサーにも影響力がある。

しかし、アーティストには「出演しない」という力がある。

観客には、支持したり批判したりする力がある。

ジャーナリズムには、その対立を社会に開く力がある。

一つの力が社会全体を覆い尽くすのではなく、異なる力が互いに緊張関係をつくる。

私はここに、民主主義社会における〈公共〉の萌芽を見る。

 

「公」と「公共」は違う

私はこれまで、「公」と「公共」は同じものではないと考えてきた。

〈公〉は、上から作ることができる。

国家が制度を作る。

自治体が施設を作る。

企業がホールを作る。

興行主が舞台を作る。

そこには管理者がいて、規則があり、秩序がある。

しかし、それだけでは〈公共〉にはならない。

公共とは、完成された「場所」の名前ではない。

 

異なる人間同士が、互いを完全には理解できなくても、なお同じ場所に存在し続けようとする〈関係〉の名前なのではないか。

 

だから公共には、異論が必要である。

反論が必要である。

ときには衝突さえ必要になる。

誰もが同じことを考え、同じことしか言わない空間は、静かではあっても、公共的とは限らない。

むしろ公共が本当に試されるのは、

 

自分が聞きたくない言葉を語る人間と、それでも同じ社会にいられるか

 

という瞬間なのである。

その意味で、〈公〉は権力によって作ることができる。

しかし、

 

〈公共〉は、異なる他者との関係によってしか作ることができない。

 

「空気」と「公共」

日本社会について語るとき、「同調圧力」や「空気」という言葉がよく使われる。

しかし、

「日本には空気がある」

と言った瞬間、その空気を誰が作っているのかが見えなくなる。

スポンサーなのか。

芸能事務所なのか。

テレビ局なのか。

興行会社なのか。

SNS上の批判を恐れる本人なのか。

それとも、

「政治について語る人は面倒な人だ」

と距離を置く、私たち一人ひとりなのか。

空気は自然現象ではない。

人間が作っている。

だから、人間によって変えることもできる。

そして私は、「空気」と「公共」は正反対の方向を向くことがあると思う。

空気は、

 

「周囲と同じであれ」

 

と迫る。

公共は、

 

「違ったまま、ここにいてよい」

 

と認める。

空気は異論を孤立させる。

公共は異論を関係の中にとどめる。

だから、民主主義社会に必要なのは「空気を読む能力」だけではない。

ときには、

 

空気に逆らって、孤立した誰かの隣に立つ能力

 

なのではないだろうか。

 

しかし、語らない自由もある

同時に、もう一つ忘れてはならない。

 

政治について語らない自由もある。

 

すべての歌手に政治的発言を要求する社会も、また息苦しい。

「なぜパレスチナについて発言しないのか」

「なぜこの戦争について声明を出さないのか」

「沈黙しているということは、どちらかに加担しているのではないか」

そうやって全員に政治的立場の表明を要求し始めれば、それもまた別の同調圧力になりうる。

エド・シーランは今回、自分のコンサートについて、政治的なフォーラムではなく、人々を結びつける場所であってほしいという考えを説明している。

その選択にも、また自由がある。

語る自由と、語らない自由。

賛成する自由と、反対する自由。

参加する自由と、参加しない自由。

それらが同時に存在できなければならない。

だから、この事件で本当に問われているのは、

「アーティストは政治について発言すべきか」

ではない。

 

発言する者と発言しない者、賛成する者と反対する者が、互いを社会から追放することなく、同じ公共空間に存在できるか。

 

そのことなのだと思う。

 

自由を守るのは誰なのか

自由について語るとき、私たちは法律や憲法を思い浮かべる。

もちろん、それらは不可欠である。

権力が人間の思想や言論を恣意的に封じることを防ぐ制度は、民主主義の基礎である。

しかし、どれほど立派な憲法があっても、それだけで自由な社会が完成するわけではない。

なぜなら、社会の中で一人の人間が孤立させられたとき、その人の隣に立つことを法律は私たちに強制できないからである。

そこで必要になるのが、〈連帯〉なのだと思う。

エヴリン・ベアトリス・ホールがボルテールの態度を表現した、

 

「私はあなたの言うことには反対だ。しかし、あなたがそれを言う権利は、命をかけて守る」

 

という言葉が、一世紀以上にわたってボルテール自身の言葉だと誤解されながら、それでも人々を惹きつけてきた理由も、そこにあるのではないだろうか。

この言葉の核心は、単なる「寛容」ではない。

寛容という言葉には、ときとして「私は正しいが、あなたが間違っていることを大目に見てあげよう」という響きさえある。

しかし、ここで語られているのは、それよりも強い。

 

自分とは異なる他者の自由を、自分自身の問題として引き受けること。

 

そこには、すでに〈連帯〉の思想がある。

そして今回、フィニアスたちが行動によって示したものも、その一つの現代的な形として読むことができる。

「あなたが正しいから、あなたの隣に立つ」

だけではない。

 

「あなた一人を黙らせることで成立する舞台なら、私はその舞台に立たない」

 

という選択である。

 

「黙らされた一人」の隣に立てるか

だから今回の事件で、私が最も考えさせられたのは、マックルモアの言葉そのものだけではない。

その後だった。

一人のアーティストが舞台から外された。

すると、別のアーティストが自分も舞台を降りた。

さらに別のアーティストも降りた。

そこには、

 

「あなた一人の問題にはしない」

 

という意思があった。

ここに、私は〈公共〉を見る。

公共とは、意見の一致ではない。

同じ価値観を持つ者だけが集まることでもない。

むしろ、

 

違う者同士が、違うままで、互いが語ることのできる場所を守ること。

 

その関係そのものが、公共なのではないだろうか。

だから、日本社会について本当に問うべきなのは、

「なぜ日本人は政治について語らないのか」

ではない。

まして、

「なぜ日本人はアメリカ人ほど自由ではないのか」

でもない。

問うべきなのは、もっと身近で、そして厳しい問いである。

 

自分とは違う意見を語った誰かが、そのために孤立したとき、私たちはその人の隣に立つことができるだろうか。

 

しかも、自分自身にも少し不利益が及ぶかもしれないときに。

自由とは、自分が好きなことを言える状態だけではない。

 

自分とは違うことを言った他者が、そのために孤立させられたとき、その人を一人にしないこと。

 

〈公〉は、制度によって作ることができる。

しかし〈公共〉は、誰かの自由が危うくなったとき、その人の隣に立つ人間がいて初めて生まれる。

だから――

 

自由を本当に支えているものは、自由そのものではなく、〈連帯〉なのかもしれない。