わたしのブログをご覧いただきまして、有難うございます。
北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。
2026年7月31日、長野県原村で開催された原村教育研究会主催の研究会に参加しました。
北杜市と同じ八ヶ岳山麓に位置する原村は、豊かな自然に恵まれ、移住先としても人気のある地域です。
今回、私が特に楽しみにしていたのが、原村保育園の保育を実際に見ることでした。
原村保育園の宮坂昌一園長は、以前、北杜市にもお話に来られたことがあります。その際に先生のお話を伺い、私は深い感銘を受けました。
宮坂先生が実践されている保育とは、実際にはどのようなものなのだろう。ぜひ一度、自分の目で確かめたいと思っていたところに、今回の研究会への参加の機会がありました。
園庭に広がっていた「遊び」
受付を済ませ、参観についての説明を受けた後、園庭へ出ました。
そこで何より印象的だったのは、「遊び」という言葉が保育の中心に置かれていることでした。
宮坂園長によれば、原村の保育では、子どもの中にある創造性を育てることを重視しており、その力は「遊ぶ」ことを通して培われていくと考えているとのことでした。
実際の園庭には、色水遊び、あわ遊び、泥水遊び、砂遊び、築山を利用したウォータースライダー、泥プール、泥当て、タイヤプールなど、さまざまな遊びの場が広がっていました。
しかし、そこにあるのは、遊び方が最初から決められた完成品ばかりではありません。
水、泥、砂、絵の具、タイヤ、板、築山など、子ども自身が働きかけることで、いくらでも遊び方の変わる素材や空間が用意されています。
ある子は裸足で泥の中を歩き、ある子は土を掘り、ある子は何度も築山を滑っていました。色水を別の容器へ移し替えたり、違う色を混ぜたりしている子もいます。
そこでは、「こうしたら、どうなるんだろう」という好奇心が、次の行動を生み出しているように見えました。
私はその光景を眺めながら、子どもたちは「遊んでいる」と同時に、自分たち自身で世界を発見しているのだと思いました。
遊びの中には、すでに「学び」がある
水を流せば低いところへ向かい、土に水を加えれば硬さや重さ、手触りが変わります。斜面に水を流して滑れば、自分の身体の重さや速さ、斜面との関係を身体そのもので知ることになります。色を混ぜれば、それまでなかった色が生まれます。
また、友達と一緒に遊べば、自分の思い通りにならないことにも出会います。相手の気持ちを感じ、自分の動きを変え、時には譲り、時には一緒に新しい遊び方を考えることになります。
そこには、自然についての発見もあり、身体感覚もあり、想像力もあり、他者との関係もあります。
しかし、子どもたちは「いまから自然科学を学びます」「次はコミュニケーション能力を身につけます」などとは考えていません。
遊びの中では、それらはまだ分かれていないのです。
世界そのものが、ひと続きになっています。
そして子どもは、その世界に自分の身体ごと入り込んでいます。
水の冷たさ、泥のぬめり、土の重さ、夏の日差し、濡れた斜面を滑る感覚、絵の具が指の間に入り込む感触。子どもたちは、そうしたものをまず身体で知ります。
私たちは「学ぶ」というと、どうしても頭で理解することを想像しがちです。文字を覚え、計算をし、知識を身につける。それらはもちろん大切です。
しかし、人間は頭だけで世界を知るわけではありません。
見ること、触れること、聞くこと、動くこと、驚くこと、失敗すること、面白がること。そうした身体的な経験が積み重なった上に、やがて言葉や概念が重なっていくのではないでしょうか。
そう考えると、「遊び」は「学び」の反対側にあるものではありません。
幼い子どもにとってはむしろ、遊ぶことそのものが、世界を知ることなのかもしれないと思いました。
赤と白が出会って、桃色になる
とりわけ心に残ったのが、色を使って遊ぶ子どもたちの姿でした。
ある子が掌に赤い色をつけ、その上から白を重ねていました。
すると、桃色になりました。
私は思わず、
「絵の具を混ぜると、いろいろな色に変わるんだね」
と口にしました。
そして、その瞬間、少しハッとしました。
一つの色だけでは生まれなかった色が、違う色と出会うことで生まれている。
単色から、多色へ。モノトーンから、カラーへ。モノカルチャーから、ポリカルチャーへ。
もちろん、これは子どもが考えていたことではありません。目の前の遊びを見ていた私の側に生まれた連想です。
けれども、それもまた興味深いことでした。
子どもが世界を発見している傍らで、大人もまた、子どもの姿を通して世界を発見し直している。
教育とは、大人から子どもへ一方向に何かを伝えるだけの営みではないのかもしれない。
そんなことを、この小さな色の変化から考えさせられました。
私が思わずレンズを向けた光景
そして、もう一つ、強く心に残った光景がありました。
園庭で音楽が流れ、子どもたちがダンスを始めたときのことです。
私の目を奪ったのは、子どもたちだけではありませんでした。
保育士の皆さんも、本当に楽しそうに踊っていたのです。
「仕事だから園児に付き合っている」というようには、私には見えませんでした。子どもを楽しませるために、大人がサービスとして踊っているという感じでもありません。
保育士自身が音楽を感じ、身体を動かし、子どもたちと一緒になって、その時間を心から楽しんでいるように見えました。表情も身体の動きも、とても生き生きとしていました。
私はその姿に目を奪われ、思わずカメラを向けました。何枚も写真を撮りましたが、それでもこの場に流れているものは静止画だけでは残せないような気がして、動画まで撮影しました。
その後、保育士の方から、さらに印象的なお話を伺いました。
「ダンスの時間であっても、私たちは園児にダンスすることを強制しません。あの時間に踊っていた園児は、自らが踊りたいから踊っていたのです。」
この言葉を聞いて、私が目を奪われた光景の意味が、さらに鮮明になったように思いました。
そこでは、「ダンスの時間だから、みんなで同じように踊りましょう」と子どもに求めているのではありません。
大人は、音楽や身体表現を楽しめる場をつくる。しかし、その場に加わるかどうかは子ども自身に委ねる。
踊りたい子は踊る。踊りたくない子には、踊らないという選択もある。
そして興味深いのは、子どもに参加を強制しない一方で、大人がその世界から退いているわけでもないことです。
むしろ保育士自身が、心から楽しそうに踊っていました。
ここには、原村保育園の保育を考えるうえで大切なことが表れているように思います。
子どもの主体性を尊重することと、大人がその世界から退くことは、同じではない。
大人は場をつくる。子どもには、参加する自由と参加しない自由がある。そして大人自身も、その場に一人の人間として生き生きと関わり、子どもと楽しさを共有する。
「先生が子どもを楽しませている」のではなく、大人と子どもが、ともに楽しい。
振り返ってみると、私が思わず何枚も写真を撮り、さらに動画まで残したかったのは、その「ともに楽しい」という空気だったのかもしれません。
そして後になって、もう一つ興味深いことに気づきました。
あのとき園庭に流れ、子どもたちと保育士の皆さんが一緒になって踊っていた曲は、「Zoo 〜君がいるから〜」でした。
その歌詞には、
「自分らしく自由にみんな輝く」
という一節があります。
私は後からこの言葉を知って、あの日の光景をもう一度思い返しました。
踊ることを強制されていたわけではない。踊りたい子が、自分から踊っていた。そして、その隣では保育士の皆さんも、生き生きと身体を動かし、その時間を楽しんでいた。
「自分らしく」「自由に」という言葉が、教育理念として掲げられていたのではありません。それはもっと具体的に、子どもが「踊りたい」と感じたときに踊ることができ、「踊りたくない」と感じたなら踊らなくてもよいという、小さな選択の中に現れていたように思います。
そして「みんな輝く」とは、みんなが同じことをするという意味ではないのでしょう。
違う一人ひとりが、それぞれの仕方でその場にいる。だからこそ、その場全体が豊かになる。
色水遊びを見ながら私が感じた「単色から多色へ」ということとも、どこかで響き合っているように思いました。
もちろん、これは曲を選んだ方がそこまで意図していた、という意味ではありません。あの日の光景と歌詞が、後になって私の中で重なったということです。
けれども、あの園庭で流れていた音楽まで含めて振り返ると、私がなぜあのダンスの光景にあれほど惹かれたのかが、少し分かるような気がしました。
「教える」より前に、「育つ」がある
教育という言葉から、私たちはしばしば「大人が子どもに何を教えるのか」という発想をします。
しかし、原村保育園で見た子どもたちは、大人から教えられる以前から、自ら世界に働きかけていました。
触ってみる、混ぜてみる、掘ってみる、登ってみる、滑ってみる、踊ってみる。友達の真似をしてみたり、うまくいかなければやり方を変えてみたりする。
つまり、「教える」という営みより前に、子ども自身が「育つ」という営みがあります。
宮坂園長から示された、
「子どもは、やる気と可能性に満ちた自己更新する存在である」
という言葉も、実際の子どもの姿を見た後では、より具体的な意味をもって感じられました。
だからといって、大人は何もしなくてよいわけではありません。
むしろ、子どもが自ら育つためには、大人の仕事が必要です。
遊べる環境を整えること。時間を保障すること。さまざまな素材を用意すること。危険を見極めながら、ときには任せること。そして、すぐに正解を教えてしまわず、その子が何をしようとしているのかをよく見ること。
宮坂園長が、
「危険性はあるけれど、任せている」
「子どもの気持ちを理解できなくても、分かろうとする先生がいる」
と話されていたことが印象に残りました。
教育とは、子どもを大人が考えた答えへ急いで連れていくことではなく、その子の中から始まったものが育っていく条件を整え、ときには待つことでもあるのでしょう。
そしてダンスの場面からは、もう一つのことを教えられました。
大人は環境を整えた後、ただ遠くから見守るだけではない。
自分自身も、その世界を面白がってよいのです。
子どもとともに、大人も学ぶ
園内には、保育の実践をまとめた展示もありました。
そこには、保育士同士が経験や思いを語り合い、「子どもたちにこんな体験を届けたい」という願いを共有することで、保育をより豊かなものにしていこうとする姿が紹介されていました。
子どもの主体性を尊重するというのは、放っておくという意味ではありません。
何に興味を持っているのか、どこまで任せるのか、どこで支えるのか、どのような環境なら、そこから次の遊びが生まれるのか。そうしたことを、大人自身も問い続けています。
午後のグループ討議でも、
「強制のない遊びが印象的だった」
「やりたいことをやらせることが重要だと学んだ」
「『ダメ』を言わない保育を目指したい」
「教えられることより、自分で学んでいく経験を積むことが大切だと学んだ」
といった発言がありました。
私は討議を聞きながら、原村保育園の保育とは、子どもを一定の型にはめるよりも、むしろ大人の側の先入観を一度取り外して、目の前の子どもを見る保育なのかもしれないと感じました。
そして、園庭で踊っていた保育士の姿を思い返すと、大人はただ「子どもの学びを支える人」なのでもないように思えてきます。
大人自身も学び、感じ、世界を面白がっている。
子どもと大人が、ともに世界に出会っている。
このことも、原村保育園で私が受け取った大切なメッセージでした。
「原村の子どもは、原村みんなで育てる」
さらに興味深かったのは、この研究会に原村保育園の先生方だけでなく、原小学校や原中学校の教員も参加していたことです。
午後の冒頭、原村教育長から、
「原村の子どもは、原村みんなで育てる」
という教育方針が紹介されました。
保育園は保育園、小学校は小学校、中学校は中学校と、行政制度としては分かれています。
しかし、一人の子どもの成長は、制度によって分割されるものではありません。
昨日まで保育園児だった子が、小学校へ上がった瞬間、別の人間になるわけではありません。同じ子どもが、同じ地域で育ち続けています。
だからこそ、保育園でどのような経験をしているのかを小学校や中学校の先生も知り、同じ子どもの成長について一緒に考えることには、大きな意味があります。
そこには、施設や制度を超えて、一人の人間の育ちを長い時間軸で地域が支えるという考え方があります。
この日の研究会そのものが、「原村の子どもは原村みんなで育てる」という言葉を実践しているように、私には感じられました。
「好きこそものの上手なれ」
グループ討議の後には、北杜市白州町にある薮内正幸美術館の薮内竜太館長による、
「好きこそものの上手なれ」
と題した講演がありました。
動物画家・薮内正幸氏のご子息である竜太館長によれば、正幸氏は幼いころから、とにかく動物が好きだったそうです。
絵を専門的に習ったわけではありません。
それでも後には、写真などを見なくても動物を描けるほどの職人的な技術を身につけていきました。
しかし、竜太館長のお話で印象的だったのは、正幸氏を単純な「絵の天才」として語っていなかったことです。
動物が好きだったから、よく見た。知ろうとした。何度も描いた。好きだからこそ、手間を惜しまなかった。
その長い積み重ねが、やがて技術になったというお話でした。
そして、その周囲には高島先生や今泉先生、福音館書店の松居直編集長など、彼の「好き」を理解し、その時々に必要なものを支えてくれる大人たちがいたそうです。
ここで私は、午前中の園庭を思い出しました。
泥に夢中になる子、色水を何度も混ぜる子、築山を繰り返し滑る子、音楽に合わせて自ら踊ることを選んだ子。そして、その子どもたちと一緒になって踊り、本当に楽しそうにしていた保育士たち。
一見すると、薮内正幸氏の人生とは遠く離れた光景です。
しかし、その根元には、何か共通するものが流れているのではないでしょうか。
「好きだから、もっとやりたい」。
そして、その「好き」を理解し、ときには一緒に面白がってくれる大人がいる。
そのことが、人が育つうえでどれほど大きな力になるのかを考えさせられました。
「好き」と「遊び」には、時間がいる
竜太館長は、結果や効率、いわゆる「コスパ」が重視される時代だからこそ、時間をかけることの大切さを強調されました。
私はその言葉にも深く共感しました。
大人から見れば、子どもが同じことを何度も繰り返しているだけに見えることがあります。
けれども、本人にとっては同じではありません。
さっきより水を多くしてみる。別の色を加えてみる。違う場所を掘ってみる。もう一度滑ってみる。もう一度踊ってみる。
その一回一回に、小さな違いがあります。
人間の成長は、すべてを効率よく最短距離で進めればよいものではないのでしょう。
本当に価値のあるものの中には、時間をかけなければ育たないものがあります。
そして、その時間を大人が待てるかどうか。
ここもまた、教育を考えるうえで大切な問題なのだと思います。
教育とは何だろう
朝から夕方までの長い研究会でした。
しかし、帰るときには、大きな充実感が残っていました。
なぜだろうと思います。
振り返ってみると、私はこの一日を通じて、さまざまな形で同じものを見ていたのかもしれません。
泥に触れ、色を混ぜ、水を流し、滑り、自ら踊ることを選ぶ子どもたち。その子どもたちと一緒に、本当に楽しそうに踊る大人。
好きな動物を見つめ、描き続けた薮内正幸氏。そして、その「好き」を理解し、支えた大人たち。
それらが、私の中で一本につながりました。
教育とは何でしょうか。
知識を教えることでしょうか。正しい答えへ導くことでしょうか。将来必要となる能力を身につけさせることでしょうか。
もちろん、それらも大切です。
しかし、そのもっと根底には、子どもには自ら育つ力があると信頼することがあるのではないでしょうか。
そして、その力が伸びていくための環境と時間を保障し、失敗できる余白をつくり、その子が何かに夢中になる時間を守ること。
さらには、何かを「する自由」だけでなく、ときには「しない自由」も認めること。
ダンスの時間だから、全員が踊らなければならないのではない。
踊りたいから、踊る。
その小さな自由の中に、自分の感覚を確かめ、自分で選び、自分の世界をつくっていく人間の主体性の芽があるように思います。
そして今回、私はもう一つ大切なことを教えられました。
それは、大人自身が世界を面白がって生きることです。
大人自身が自然に驚き、音楽を楽しみ、ときには踊り、好きなものについて語り、子どもと一緒に笑う。
自分自身が世界に心を動かされている大人の姿は、それ自体が子どもに何かを伝えているのではないでしょうか。
子どもに自由を与えることは、大人が世界から身を引くことではありません。
むしろ、子どもの自由を尊重しながら、大人自身も一人の人間として生き生きと世界に関わっている。
「先生が子どもを楽しませる」のではなく、大人と子どもが、ともに世界を楽しむ。
原村保育園で目を奪われたダンスの光景を思い返すと、私はそこに、教育という営みの一つの原型を見たような気がします。
子どもが育つ。その子どもと出会うことで、大人もまた学び、変わっていく。そして、その両方を地域が支える。
教育とは、一方が他方を一方的に形づくることではなく、人と人とが同じ世界に出会いながら、ともに育っていく営みでもあるのではないでしょうか。
大人にできることは、その過程を急いで「正解」へ連れていくことではなく、時には、子ども自身が育っていく時間を信じて待つことなのかもしれません。
そして、ときにはその隣で、自分自身も心から楽しむこと。
「好き」と「遊び」と「身体」と「時間」。そして、「ともに楽しむこと」。
原村保育園の園庭で見た子どもたちと保育士の姿、そして薮内正幸氏の人生を思い返しながら、私は今、教育とは、人が一方的に人を形づくることではなく、それぞれが自らの身体と意思をもって世界に出会い、その世界をときに誰かと分かち合いながら、ともに育っていく営みなのではないかと考えています。
宮坂園長をはじめ、この研究会を企画・実施してくださったすべての関係者の皆さまに、心より感謝申し上げます。











