私のブログをご覧いただき、有難うございます。

 

北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

 

軍需産業は、憲法が禁じた
「その他の戦力」ではないのか。

 

この論考は、現在の政府解釈を否定することを目的としたものではありません。

 

憲法第9条第2項の「その他の戦力」という言葉を、制定史や歴史的文脈から改めて考えてみたいという問題提起です。

 

ご意見やご批判も含め、多くの方と議論できれば幸いです。

はじめに

日本国憲法第9条第2項は、次のように定めている。

 

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

私たちは通常、ここにいう「戦力」を、軍隊、自衛隊、戦闘機、艦艇、ミサイルなど、直接に武力を行使する組織や兵器として理解している。

 

しかし、戦争は、軍隊と兵器だけで遂行できるものではない。

 

兵器を研究・開発し、製造し、修理し、弾薬を継続的に供給する工場が必要である。原材料、エネルギー、通信、輸送、港湾、航空施設、科学技術、熟練労働者など、広範な産業的・経済的基盤がなければ、軍隊は戦闘を継続できない。

 

そうであるならば、憲法第9条第2項が保持を禁じた「その他の戦力」とは、現に編成された軍隊だけを意味するのだろうか。

 

それとも、国家が戦争を開始し、維持し、継続することを可能にする産業的・経済的な潜在能力まで含むのだろうか。

 

この問いは、長らく憲法学の周縁に置かれてきた。

 

しかし、政府が国内の防衛生産・技術基盤を「防衛力そのもの」と位置づけ、防衛装備品の海外移転を戦略的に推進し、軍需産業を国家の継戦能力の基盤として育成しようとしている現在、この問いを避けて通ることはできない。

 

本稿は、憲法第9条第2項の制定過程に現れる英語表現である “other war potential” に立ち返り、国家の軍事政策と一体化した軍需産業が、「その他の戦力」に含まれるのではないかという根本的な憲法上の疑義を提起するものである。

 

ただし、この問題提起は、今日の防衛産業政策を見て、憲法第9条の意味を新たに拡張しようとするものではない。

 

むしろ、その逆である。

 

占領期の連合国側の政策文書において、war potential という言葉は、軍隊や兵器だけでなく、軍需生産能力、工場、重工業などの産業的戦争能力を含む概念として実際に用いられていた。

 

近代日本の軍事力は、軍隊だけによって形成されたのではない。「富国強兵」のもと、国家と財閥、政商、重工業、軍需企業が結合し、一つの戦争遂行体制を形づくっていた。

 

連合国が解体しようとしたのも、軍隊だけではなく、この軍隊と産業との結合によって成り立つ日本の戦争潜在力であった。

 

したがって、軍需産業を「その他の戦力」に含める解釈は、現代的な拡張解釈ではない。

 

それはむしろ、憲法制定時に “other war potential” が置かれた歴史的文脈と、当時の言葉の意味を、現代において回復しようとする解釈なのである。


第1章 「戦力」を軍隊だけに限定してよいのか

1 現在の政府解釈

日本政府は、憲法第9条第2項の「戦力」を、おおむね国家が保持する組織的な軍事的実力として理解してきた。

 

政府の立場では、第9条は自衛権そのものを否定しておらず、自衛のための必要最小限度の実力は、憲法が禁じる「戦力」には当たらないとされる。その論理に基づいて、自衛隊の存在も合憲と説明されてきた。

 

この解釈では、民間企業が所有する生産設備や技術は、自衛隊を物的に支える産業基盤ではあっても、それ自体が国家の保持する「戦力」ではない。

 

したがって、国内に兵器を製造する企業や工場が存在し、それらを政府が支援していても、軍需産業そのものが直ちに第9条第2項に違反するとはされてこなかった。

 

しかし、ここには一つの根本的な問題がある。

 

国家が企業に兵器の開発と製造を委ね、その製品を買い上げ、補助金や法制度によって企業を維持し、その技術や生産設備を国家安全保障政策の一部として組み込んでいる場合、それを単なる私人の自由な経済活動とみなすことができるのだろうか。

 

形式上は民間企業であっても、国家の軍事政策と制度的・財政的に結合しているならば、それは実質的には国家の戦争遂行能力の一部ではないのか。

 

問題は、企業が国有か民有かという形式ではない。

 

重要なのは、その産業がどのような目的のもとに組織され、国家政策の中でどのような機能を果たしているかである。

 

軍需産業が国家の軍事計画に従って兵器を開発し、政府の予算によって維持され、国家の継戦能力を支え、同盟国や同志国への装備供給を担うのであれば、それは国家から独立した一私企業の活動とは言い難い。

 

そこには、国家の軍事政策と民間企業とが機能的に結合した、一つの戦争遂行体制が形成されている。

2 経済活動の自由だけでは説明できない

軍需産業が民間企業であることを理由に、「戦力」から当然に除外することにも疑問がある。

 

憲法第22条が保障する職業選択の自由や営業の自由は、無制限な権利ではない。生命、安全、環境、公共の福祉などを理由として、さまざまな経済活動が法的規制を受けている。

 

したがって、「民間企業の経済活動だから憲法第9条の規律は及ばない」という説明は成り立たない。

 

そもそも軍需産業は、通常の市場で一般消費者に商品を販売する産業ではない。

 

主な顧客は国家である。何を開発し、何を製造するかは、政府の安全保障政策と装備計画に大きく左右される。国家が購入しなければ市場そのものが成立しない場合も多い。

 

さらに政府は、研究開発への支援、設備投資への助成、企業の事業承継、製造施設の維持、輸出先の選定などを通じ、軍需産業の存続に直接関与する。

 

このような産業を、国家から独立した自由な経済活動として理解することには無理がある。

 

憲法上問われるべきなのは、それが民間の事業か否かではない。

 

国家が戦争を遂行するための能力を形成し、維持し、強化する活動であるか

 

ということである。


第2章 “other war potential” という言葉

1 日本語の「戦力」と英語表現の違い

憲法第9条第2項に対応する英文には、次の表現が用いられている。

 

land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.

 

ここで注目すべきなのは、「その他の戦力」が、単なる other armed forces、すなわち「その他の軍隊」と表現されていないことである。

 

用いられているのは、

 

other war potential

 

である。

 

“potential” は、現に存在し、直ちに行使できる力だけを意味しない。

 

それは、潜在力、可能性、将来動員できる能力を意味する。

 

したがって、“war potential” は、単なる軍隊や兵器ではなく、国家が戦争を開始し、維持し、継続するために動員できる潜在的能力を意味するものと読むことができる。

 

もっとも、現行憲法の法的正文は日本語であり、英文だけで日本語条文の意味を決定することはできない。

 

しかし、第9条がGHQ草案を重要な起点として成立し、その制定過程で “war potential” という表現が用いられていた以上、この英語表現は、単なる後世の参考訳ではない。

 

条文の思想的背景、制定時の政策目的、「戦力」という日本語に込められた意味を考える上で、無視することのできない制定史的資料である。

 

したがって、より正確には、

 

憲法制定過程に現れる英語表現 “other war potential”

 

を、第9条第2項の意味を考える重要な手掛かりとして位置づけるべきである。

2 潜在的能力説

戦後の憲法学には、「戦力」を、戦争に役立つ可能性のある潜在的能力を含むものとして理解する学説が存在する。

 

この見解では、軍事力だけでなく、軍需生産、航空機、港湾施設なども、戦争を可能にする潜在的能力として「戦力」に含まれ得ると考える。

 

一般に、潜在的能力説と呼ばれる見解である。

 

潜在的能力説を徹底すれば、憲法第9条第2項が禁止しているのは、現に編成された軍隊だけではない。

 

軍隊を支え、戦争を可能にする軍需生産能力、輸送施設、航空施設、港湾、通信網、科学技術なども、「戦争潜在力」として問題になり得る。

 

この学説は、現在の憲法学における多数説とはいえない。

 

戦争に利用できる可能性だけを基準にすれば、近代国家のほとんどすべての産業や施設が戦力に含まれてしまう、という批判があるからである。

 

鉄鋼、造船、自動車、航空、通信、半導体、AI、エネルギーなど、多くの民生産業には軍事転用の可能性がある。

 

したがって、単に戦争へ転用できる可能性があるというだけで、すべての産業を「戦力」とみなすことは妥当ではない。

 

しかし、この批判によって潜在的能力説の核心が失われるわけではない。

 

問題は、戦争に利用できる可能性がある産業一般ではない。

 

問題となるのは、

 

兵器の生産を目的として組織され、国家の軍事政策と制度的・財政的に一体化し、国家の継続的な戦争遂行を可能にする軍需産業

 

である。

 

こうした軍需産業は、偶発的に軍事転用される可能性を持つ民生産業とは異なる。

 

その主要な目的、製品、取引先、技術開発、資金供給、法的保護が、最初から国家の軍事政策と結びついている。

 

民生技術が結果として軍事利用される場合と、兵器を開発・製造・補給する目的で国家によって組織される産業とは、区別しなければならない。

 

その意味で、国家の軍事政策と一体化した軍需産業は、“war potential” の周辺に位置するのではない。

 

むしろ、その中核に位置すると考えることができる。


第3章 近代日本の軍産結合と連合国の非軍事化政策

1 「富国」と「強兵」は一つの国家構想であった

近代日本の軍事力は、軍隊だけによって形成されたものではなかった。

 

明治国家が掲げた「富国強兵」という言葉が示すように、「富国」と「強兵」は、別々の政策ではなかった。

 

国力を増進させる産業政策と、軍事力を増強する軍事政策とは、一つの国家構想の中に位置づけられていた。

 

近代的な軍隊を維持するためには、兵器、艦艇、航空機、弾薬、鉄鋼、燃料、通信、輸送、金融などが必要である。

 

そのため国家は、造船、鉱山、製鉄、海運、重工業、化学、金融などの産業を育成した。

 

そして、それらの産業は軍事力を支え、軍事的膨張はさらに産業へ市場と利益をもたらした。

 

国家の対外膨張と民間資本の拡大は、相互に支え合っていた。

 

三菱をはじめとする財閥や政商と、日本軍とを切り離して理解することはできない。

 

三菱は、海運、造船、重工業、航空機製造などを通じて、国家の軍事政策と深く結びついた。

 

三井、住友、安田、日産系などを含め、戦前の巨大資本と国家の軍事的膨張は、緊密な相互依存関係を形成していた。

 

戦争は、軍部だけによって遂行されたのではない。

 

軍部、官僚、政治家、財閥、軍需企業、金融機関が結合し、国家の戦争遂行体制を形成していたのである。

 

軍隊が国家の暴力装置であったとすれば、軍需産業は、その暴力装置を生産し、補給し、再生産する物質的基盤であった。

 

両者は別々の存在ではなかった。

 

それぞれが他方なしには成立しない、いわば一つの戦争遂行機構を構成していた。

2 総力戦としての第二次世界大戦

日本国憲法が制定された時代は、近代的な総力戦を経験した直後であった。

 

第二次世界大戦は、軍隊だけが戦う戦争ではなかった。

 

国家が国民、産業、科学、教育、交通、報道、資源を総動員し、社会全体を戦争目的に組み替える総力戦であった。

 

前線で戦う軍隊の背後には、兵器を生産する工場があり、原料を供給する鉱山があり、物資を運ぶ鉄道と船舶があり、戦費を調達する金融制度があった。

 

学校は軍国主義教育を担い、報道機関は戦争への動員を支え、科学技術は兵器開発へ動員された。

 

戦争遂行能力とは、軍隊という一組織だけではなかった。

 

国家と経済と社会の総体が、戦争を可能にする能力へと転換されたのである。

 

日本の侵略戦争を支えたのも、軍隊だけではない。

 

軍需企業、重工業、造船、航空機産業、鉄鋼、化学、輸送、金融などが、国家の戦争政策と結合し、巨大な戦争遂行体制を形成していた。

 

したがって、日本を再び戦争のできない国にするためには、軍隊を解散させ、兵器を廃棄するだけでは不十分であった。

 

軍隊を再生産する産業的・経済的基盤そのものを解体しなければならなかったのである。

3 連合国による「産業の非軍事化」

連合国による日本の非軍事化は、軍隊の解散や兵器の廃棄だけを意味するものではなかった。

 

米国の対日政策文書は、主として軍事的性格を持つ産業を除去するとともに、日本が再び「経済的な戦争潜在力(economic war potential)」を形成することを防ぐため、産業そのものを非軍事化する方針を明記していた。

 

当時の連合国側の公式な政策用語において、war potential は軍隊や兵器に限定されていなかった。

 

軍需生産能力、工場、重工業、航空機産業、造船能力など、日本が再び戦争を開始し、継続することを可能にする産業的・経済的な能力を含む概念として用いられていたのである。

 

このことは重要である。

 

“war potential” を、今日の日本語の感覚から、軍隊に類する組織や現有兵器だけを指す言葉として理解することは、当時の連合国側における実際の用法と一致しない。

 

連合国が問題にしていたのは、軍隊という顕在的な武力だけではなかった。

 

軍隊を再建し、兵器を増産し、長期にわたる戦争を可能にする「潜在的な国家能力」そのものであった。

 

その中には、当然、軍需産業が含まれていた。

 

連合国が、軍隊の解散と並行して、軍需産業の除去、産業的戦争能力の削減、財閥解体を進めたことも、この歴史認識によって理解できる。

 

それは単なる経済民主化政策ではなかった。

 

少なくともその重要な一面は、国家、軍隊、財閥、重工業の結合によって形成された日本の戦争遂行体制を解体することにあった。

4 “other war potential” は何を意味したのか

このような歴史的文脈の中で、GHQ憲法草案には “other war potential” という表現が置かれた。

もちろん、憲法起草担当者が、

 

この言葉は三菱などの財閥や軍需産業を直接指す

 

と明記した個別の説明が確認されなければ、その一対一の対応関係を史実として断定することには慎重さが必要である。

 

しかし、だからといって、“other war potential” と産業的非軍事化との関係を切り離すことも適切ではない。

 

確認できる歴史的事実は、次の三点である。

 

第一に、連合国側は、日本の軍事力を、軍隊だけでなく、軍需産業や重工業を含む産業的戦争能力として理解していた。

 

第二に、連合国側は、それらを economic war potential または industrial war potential と表現し、その削減・除去を占領政策の目的としていた。

 

第三に、その同じ非軍事化政策の歴史的局面において、GHQ憲法草案に “other war potential” という表現が置かれた。

 

この三点を総合すれば、“other war potential” を軍隊に類する組織だけに限定して理解する方が、むしろ不自然である。

 

この表現は、軍隊以外の戦争遂行能力、特に国家の軍事政策と一体化し、兵器を継続的に開発・生産・供給する軍需産業を含むものとして構想されたと理解することができる。

 

少なくとも、当時の連合国側が war potential という語を、軍需産業を含む産業的戦争能力の意味で現実に使用していた以上、憲法第9条第2項の「その他の戦力」から軍需産業を当然に除外する解釈には、制定史上の重大な疑問が残る。

5 現代的拡張ではなく、歴史的意味の回復

ここに、本稿の最も重要な問題提起がある。

 

軍需産業を「その他の戦力」に含めるという解釈は、今日の防衛装備移転政策を批判するために、憲法第9条の意味を後から拡張するものではない。

 

むしろ、占領期における war potential の歴史的用法と、日本の非軍事化政策全体の構造に立ち返る解釈である。

 

近代日本の戦争遂行能力は、軍隊と軍需産業との結合によって形成されていた。

 

連合国は、この結合を認識し、軍隊だけでなく、経済的・産業的な戦争潜在力を解体しようとした。

 

その文脈の中で書かれた “other war potential” を、軍隊や兵器だけに縮減して理解することは、かえって制定時の意味を狭めることになる。

 

したがって、軍需産業を「その他の戦力」に含める解釈は、現代的な拡張解釈ではない。

 

それは、憲法制定時に “other war potential” という言葉が持っていた歴史的意味を、現代に回復する解釈である。

 


第4章 第9条が否定したもの

1 戦争を可能にする国家構造への自己拘束

第9条の平和主義は、単に「政府が戦争を始めない」という道徳的な決意ではない。

 

戦争を可能にする国家の制度と能力を、あらかじめ制限する法的な自己拘束である。

 

それは、善良な政治家が常に平和を選ぶことを期待するものではない。

 

政治権力が戦争を選ぼうとしても、それを容易には実行できない国家構造をつくる試みであった。

 

近代日本の歴史が示したのは、戦争は一部の軍人の意思だけによって起こるのではない、ということである。

 

国家が軍隊を育て、産業を軍事化し、財閥や企業を戦争政策に組み込み、教育や報道を動員するとき、社会全体が戦争へ向かう。

 

だからこそ、戦争を防ぐためには、開戦の意思だけではなく、戦争を可能にする制度と能力を制約しなければならない。

 

この観点に立てば、「戦力不保持」は、軍隊の名称を変更すればよいという形式的規定ではない。

 

軍隊、兵器、軍需産業、補給能力、研究開発能力を組み合わせて、国家の戦争遂行能力を形成すること自体を、実質的に制約する原理として理解されなければならない。

2 顕在的戦力と潜在的戦力

軍隊や兵器は、すでに形を与えられた顕在的な戦力である。

 

しかし、それらを製造し、補充し、修理し、拡大する軍需産業は、顕在的戦力を継続的に生み出す潜在的戦力である。

 

軍隊だけを禁止し、軍隊をいつでも再建できる産業的能力を自由に保持できるとすれば、戦力不保持の規定は、容易に空洞化する。

 

軍隊を一時的に解散しても、兵器生産設備、軍事技術、軍需企業、国家と産業の結合がそのまま残れば、再軍備は可能だからである。

 

第9条が、単なる軍隊の不在ではなく、戦争を再び可能にしない国家構造を構想したものであるならば、軍需産業をその規律の外に置くことはできない。


第5章 2026年の防衛装備移転政策の転換

1 防衛装備移転三原則等の改正

日本政府は2026年4月21日、「防衛装備移転三原則」とその運用指針を改正した。

 

政府は、その理由として、防衛装備移転をさらに推進し、同盟国・同志国の抑止力・対処力を強化することによって、日本にとって望ましい安全保障環境をつくることを挙げている。

 

この改正により、国産完成品の海外移転を限定してきた従来の「5類型」が撤廃され、防衛装備移転の対象範囲は大きく広がった。

 

政府は、移転禁止国、現に戦闘が行われている紛争当事国への移転、目的外使用や第三国移転などについて、引き続き一定の規制と審査を行うとしている。

 

したがって、制度上は無条件の全面自由化ではない。

 

しかし、国産の殺傷能力を持つ完成装備品について、海外移転を原則的に閉ざしてきた従来の枠組みを大きく転換したことは否定できない。

 

政府は防衛装備移転を、例外的・消極的に認めるものではなく、国家安全保障政策の一環として「戦略的に推進する」ものへと位置づけ直したのである。

2 「継戦能力」を支える産業基盤

この政策転換の意味を考える上で、極めて重要なのが政府自身の説明である。

 

2026年4月21日の官房長官記者会見では、防衛装備移転を推進する目的の一つとして、

 

自衛隊の継戦能力を支える国内の防衛生産・技術基盤を強化する

 

ことが明言された。

 

さらに政府は、継戦能力を支える産業基盤を強化するため、防衛装備移転を戦略的に推進すると説明している。

 

ここでいう「継戦能力」とは、戦闘を一度行う能力ではない。

 

兵器や弾薬を補充し、損傷した装備を修理し、人員と物資を供給しながら、戦闘を継続する能力である。

 

つまり政府自身が、防衛産業を単なる民間製造業ではなく、国家が戦闘を継続するために必要な産業的能力として位置づけている。

 

防衛大臣も、日本の防衛生産・技術基盤を、

 

いわば防衛力そのもの

 

と表現している。

 

防衛力整備計画にも、「いわば防衛力そのものとしての防衛生産・技術基盤」という位置づけが示されている。

 

この政府の言葉は重い。

 

これまで政府は、民間の防衛産業は「戦力」そのものではなく、自衛隊を支える産業基盤にすぎないという区別を前提としてきた。

 

しかし、政府自身がその産業基盤を「防衛力そのもの」と呼び、さらに「継戦能力を支える基盤」と位置づけている。

 

そうであるならば、軍需産業を憲法第9条第2項の「その他の戦力」から当然に除外し続けることは、本当に可能なのだろうか。

 

政府自身の説明によって、軍需産業と戦力とを切り離してきた従来の論理は、内側から揺らいでいる。

3 占領期の “war potential” と現在の政策

占領期の連合国側は、軍需生産能力や重工業を、日本の economic war potential として捉え、その非軍事化を進めた。

 

一方、現在の日本政府は、防衛生産・技術基盤を「防衛力そのもの」と位置づけ、「継戦能力」を支えるものとして強化しようとしている。

 

両者を対照すれば、その意味は明らかである。

 

かつて連合国が、日本の再軍備を防ぐために削減しようとした産業的戦争潜在力を、現在の政府は、国家安全保障のために積極的に再建・強化しようとしている。

 

この政策が必要か否かという現実的判断の前に、まず問わなければならない。

 

これは、憲法第9条第2項が保持を禁じた “other war potential” の形成ではないのか。


第6章 軍需産業は「その他の戦力」ではないのか

1 国家と軍需産業の一体化

現代の軍需産業は、国家から独立した通常の市場産業とは性質が異なる。

 

主要な顧客は国家であり、製品は兵器や軍事装備であり、研究開発は防衛政策に従って行われる。

 

政府が調達計画を立て、予算を支出し、研究開発を支援し、事業継続を保障し、輸出先を外交・安全保障政策によって決定する。

 

このような産業を、国家と無関係な私人の経済活動として捉えることはできない。

 

形式上の所有主体が民間企業であっても、その産業が国家の戦争遂行体制に組み込まれているならば、実質的には国家の軍事的能力の一部である。

 

とりわけ政府が、

  • 防衛産業を「防衛力そのもの」と位置づける
  • 継戦能力を支えるものと説明する
  • 財政支援や法制度によって育成する
  • 防衛装備輸出によって企業の生産基盤を維持する
  • 同盟国・同志国の抑止力・対処力の強化に利用する

という政策を進める場合、軍需産業は単に自衛隊へ製品を納入する下請産業ではなくなる。

 

それは、国家の安全保障政策、外交政策、産業政策を結ぶ戦略的装置となる。

 

そのとき軍需産業は、まさに国家が保有する「潜在的な戦争遂行能力」、すなわち war potential としての性格を明確に帯びる。

2 「戦力の一部」か「戦力を支える基盤」か

政府は、軍需産業は戦力を支える基盤ではあっても、戦力そのものではないと反論するだろう。

 

しかし、現代の戦争において、その区別はどこまで維持できるだろうか。

 

兵器を持っていても、弾薬が尽きれば戦えない。

 

戦闘機があっても、部品を生産し修理できなければ飛行を継続できない。

 

艦艇があっても、整備、燃料、電子機器、ミサイルの供給がなければ作戦を続けられない。

 

戦力を、前線で武力を行使する部隊だけに限定し、その部隊を継続的に機能させる生産・補給・整備能力を除外することは、現代戦争の実態に合わない。

 

むしろ、軍隊と軍需産業は、戦争遂行という一つの国家作用の中で機能的に結合している。

 

軍隊が「顕在化した戦力」であるならば、軍需産業は、それを再生産し、拡大し、継続させる「潜在的戦力」である。

 

この意味で、次のような解釈は、十分に成り立ち得る。

 

憲法第9条第2項の「その他の戦力」には、兵器の生産を目的として組織され、国家の軍事政策と一体化し、継続的な戦争遂行を可能にする軍需産業が含まれる。

 

これは現在の政府解釈でも、憲法学の多数説でもない。

 

しかし、それを理由に、非現実的な新説として退けることはできない。

 

この解釈は、

 

憲法制定過程の “other war potential”、占領期における産業的戦争能力の概念、そして潜在的能力説に基づく、歴史的根拠を持った憲法解釈

 

として提示されるべきである。


第7章 武器輸出をめぐる従来の反対論

防衛装備移転の拡大に対しては、これまでも多くの反対論が示されてきた。

 

代表的な論点は、次のようなものである。

 

日本製の武器が他国の戦場で使用されれば、日本が他国の武力行使や国際紛争に実質的に加担することになる。

 

武器の輸出は、憲法前文が掲げる平和的生存権や国際協調主義に反する。

 

武器輸出を抑制してきた政策的歯止めを解除することは、専守防衛を空洞化させる。

 

重大な安全保障政策の転換を、国会での十分な審議や憲法改正の手続を経ず、閣議決定や国家安全保障会議の判断によって進めることは、立憲主義と議会制民主主義を軽視する。

 

これらは、いずれも重要な批判である。

 

現実の武器が誰に渡り、どのような紛争で使われるのかという問題を無視することはできない。

 

しかし、同時に一つの懸念がある。

 

「紛争を助長する」「平和国家の理念に反する」「専守防衛を逸脱する」という議論が繰り返されるだけでは、市民に「いつもの平和主義の主張」と受け取られ、その本質が届かなくなる可能性がある。

 

政策変更のたびに個別の弊害を指摘するだけでは、政府は新しい例外を設け、その例外を積み重ね、やがて従来の原則そのものを転換してしまう。

 

必要なのは、個別政策への反対にとどまらず、

 

そもそも日本国憲法は、国家が軍需産業を保有し、育成し、国際的な武器供給網へ組み込むことを認めているのか

 

という、より根本的な問いである。

 

この問いは、従来の平和主義的批判に代わるものではない。

 

それらの批判を、憲法第9条第2項の構造そのものへと深めるものである。


第8章 なぜ今、本質的な憲法論が必要なのか

1 現実を考える前に原則を確認する

安全保障の現実が厳しいという指摘は、無視できない。

 

ウクライナ戦争、中東情勢、東アジアにおける軍事的緊張などを背景に、兵器、弾薬、部品、生産能力の不足が国際的な課題とされている。

 

日本の工業力や技術力を、同盟国・同志国の防衛供給網に組み込みたいという要求も強まっている。

 

しかし、現実が厳しいからこそ、憲法上の原則を先に確認しなければならない。

 

現実の必要性を理由として、憲法の意味をその都度変えていけば、憲法は国家権力を規律する最高法規ではなくなる。

 

現実に合わせて憲法を読み替える前に、まず憲法が現実に何を要求しているのかを確認する必要がある。

 

その上で、憲法の要求と現実の安全保障上の要請が衝突するならば、その緊張を国民の前に明らかにすべきである。

 

そして、現行憲法では対応できないと考えるのであれば、正面から憲法改正を提起し、国会と国民の判断を求めるべきである。

 

それが立憲主義である。

 

憲法改正の手続を避けながら、解釈と政策の積み重ねによって条文の意味を事実上変更することは、立憲主義の方法ではない。

2 現実主義と現状追随主義

憲法論を先送りし、現実の必要性だけを語る態度は、しばしば「現実主義」と呼ばれる。

 

しかし、判断の基準を持たず、その時々の国際情勢と政府の政策に従うだけならば、それは現実主義ではない。

 

現状追随主義である。

 

真の現実主義とは、現実を直視しながらも、国家が何をしてよいのか、どこを越えてはならないのかという原則を明確にすることである。

 

憲法は、現実を無視するためにあるのではない。

 

現実の中で権力が暴走し、国民が取り返しのつかない選択をすることを防ぐためにある。

 

したがって、

 

本質的な憲法論を確認した上で初めて、現実の防衛政策を考えることができる。

 

この順序を逆転させてはならない。

 

原則を示さずに現実への対応だけを繰り返せば、政策は必ず一方向へ積み重なる。

 

一度認められた例外は次の例外の根拠となり、やがて例外が原則に置き換わる。

 

そのとき国民は、いつ、どの時点で、どの一線を越えたのかさえ分からなくなる。

 

「ズルズルべったり」の現状追随主義とは、このようにして生まれる。


第9章 デュアルユースという難問

軍需産業を「その他の戦力」に含める解釈には、現代特有の難しさもある。

 

今日の軍事技術は、民生技術と深く結びついている。

 

AI、半導体、衛星、通信、ドローン、サイバー技術、先端素材、エンジン、センサーなどは、民生にも軍事にも利用できる。

 

すべての軍事転用可能技術を禁止すれば、日本の科学技術や産業活動全体を過度に制限することになりかねない。

 

したがって、軍需産業を「その他の戦力」と考える場合でも、何を対象とするのかを慎重に定めなければならない。

 

一つの考え方は、次の要素を総合的に検討することである。

 

第一に、その製品が兵器またはその主要部品として設計されているか。

 

第二に、事業の主要な目的が軍事需要への対応にあるか。

 

第三に、政府の防衛計画、調達、補助金、研究開発政策と制度的に一体化しているか。

 

第四に、その設備と技術が、国家の継戦能力を維持するために不可欠と位置づけられているか。

 

第五に、同盟国や同志国を含む国際的な軍事供給網の形成を目的としているか。

 

このような基準によって、偶発的に軍事利用され得る民生技術と、国家の戦争遂行を目的として組織された軍需産業を区別することは可能である。

 

重要なのは、ある技術が軍事転用可能かどうかだけではない。

 

国家がその技術や産業を、いかなる目的で組織し、いかなる政策体系へ組み込んでいるかである。

 

線引きが困難であることは、問いを放棄する理由にはならない。

 

むしろ、線引きが困難だからこそ、国会と社会が明確な基準を議論しなければならない。


第10章 誰が責任を負うのか

憲法上の原則を確認しないまま、政策変更を積み重ねた結果、日本が軍需産業を国策として育成し、国際的な武器供給国となり、他国の戦争や軍拡に深く関与する国へ変化したとき、その責任は誰が負うのか。

 

最も直接的な責任を負うのは、政策を決定し実行した内閣である。

 

憲法第99条は、国務大臣、国会議員その他の公務員に憲法尊重擁護義務を課している。

 

政府には、自らの政策が憲法に適合することを説明し、憲法上の疑義に正面から答える責任がある。

 

とりわけ、占領期の war potential が軍需産業を含む産業的戦争能力を意味していたという制定史上の疑義に対し、政府は、なぜ現代の軍需産業が「その他の戦力」に該当しないのかを説明しなければならない。

 

第二に、国会の責任がある。

 

国会は、行政の決定を追認する機関ではない。

 

国家の基本方針を審議し、政府を監視し、国民に選択肢と判断材料を示すべき機関である。

 

重大な安全保障政策の変更が閣議決定を中心に進められるとき、国会が本質的な憲法論を避けるならば、それは議会制民主主義の責任放棄である。

 

第三に、研究者、法律家、メディアの責任がある。

 

従来の解釈や政治的常識を繰り返すだけでなく、政策の変化によって新たに生じた憲法上の疑義を言語化し、社会へ提示しなければならない。

 

現在の多数説ではないという理由だけで、制定史に根拠を持つ問題提起を無視してはならない。

 

そして最後に、主権者である国民にも責任がある。

 

ただし、政策を決定する権限を持つ政府と、その結果を受ける国民の責任を同列にしてはならない。

 

十分な情報が示されず、国会審議も尽くされないまま進められた政策の責任を、単に「選んだ国民が悪い」として転嫁することはできない。

 

それでも、政府がどのような政策を進めているのかを知り、問い、判断し、選挙を通じて意思を示すことは、主権者に課された民主政治上の責任である。

 

そして、政策の結果として生じる負担を最終的に引き受けるのも、政治家ではなく、市民と未来の世代である。

 

もし日本が他国の戦争を支える武器供給国となり、その結果として報復や軍拡競争の危険を招いたとしても、その影響を直接受けるのは市民である。

 

防衛費の増大によって社会保障、教育、地域政策が圧迫されるなら、その負担を受けるのも市民である。

 

だからこそ、国民は憲法上の原理を知り、自ら考える力を持たなければならない。


おわりに――憲法を現実に従わせるのか、現実を憲法に問い返すのか

憲法第9条第2項の「その他の戦力」を、軍隊や兵器だけに限定して理解するのか。

 

それとも、制定過程に現れる “other war potential” という表現に立ち返り、国家の軍事政策と一体化した軍需産業まで含むと理解するのか。

 

現在の政府解釈は、軍需産業を「戦力」そのものとは捉えていない。

 

憲法学の多数説も、あらゆる潜在的な産業能力を戦力に含める立場ではない。

 

しかし、戦後憲法学には、軍需生産を含む戦争潜在力を「戦力」と捉える学説が実在する。

 

それだけではない。

 

占領期の連合国側の政策文書において、war potential は、軍隊や兵器だけではなく、軍需生産能力、工場、重工業などの産業的戦争能力を含む概念として用いられていた。

 

近代日本の軍事力が、軍隊と財閥、政商、重工業、軍需企業の結合によって形成されていたからこそ、連合国による非軍事化は、軍隊の解散だけでなく、軍需産業の除去、産業的戦争能力の削減、財閥解体を含むものとなった。

 

その歴史的文脈の中で、GHQ憲法草案には “other war potential” という表現が置かれたのである。

 

したがって、軍需産業を「その他の戦力」に含めるという解釈は、現代の政策を批判するために第9条の意味を拡張するものではない。

 

それは、憲法制定時に “other war potential” が持っていた歴史的な意味を、現代に回復する解釈である。

 

そして現在、政府自身が、防衛生産・技術基盤を「防衛力そのもの」と呼び、「継戦能力を支える産業基盤」と位置づけ、防衛装備移転を戦略的に推進している。

 

かつて連合国が削減しようとした「経済的な戦争潜在力」を、現在の日本政府は、国家政策として育成し、強化しようとしているのではないか。

 

この政策が安全保障上必要であるか否かを判断する前に、まず問わなければならない。

 

国家が軍需産業を財政的・制度的に育成し、兵器を海外へ供給し、同盟国・同志国の軍事力を支えることは、憲法第9条第2項が保持を禁じた “other war potential” の形成ではないのか。

 

この問いを発することは、現実の安全保障上の問題を無視することではない。

 

憲法上の原則と現実の必要性との緊張を、国民の前に正直に示すことである。

 

その緊張を避け、現実の変化に合わせて憲法の意味を少しずつ変えていけば、やがて憲法は、国家権力を縛る規範ではなく、既成事実を追認するための言葉になってしまう。

 

憲法とは、現実から離れた理想ではない。

 

現実の政治に対して、

 

それは本当に許されるのか。
その一線を越えてよいのか。
その結果に、誰が責任を負うのか。

 

と問い続けるための判断基準である。

 

現実に合わせて憲法を読み替える前に、まず憲法が現実に何を要求しているのかを確かめなければならない。

 

その上で初めて、私たちは現実の防衛政策を、自らの責任において選択することができる。

 

それを省略した「現実主義」は、現実主義ではない。

 

それは、判断基準を失った現状追随主義である。

 

今、私たちに求められているのは、軍需産業を当然の前提として受け入れることでも、単に感情的に否定することでもない。

 

憲法第9条の制定史と、そこに置かれた “other war potential” という言葉の意味に立ち返り、

 

戦争を可能にする国家の力とは、いったい何なのか。

 

を、市民一人ひとりが考え直すことである。