名建築を歩く「雅俗山荘」 小林一三 侘び数寄の家(大阪府・池田) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ58

雅俗山荘(旧小林一三邸)

℡)072-751-3865

 

往訪日:2024年1月28日

所在地:大阪府池田市建石町7-17

開館時間:10時~17時(月曜休館)

入場料:300円(中学生以下無料)※資料館とセット

アクセス:阪急宝塚線・池田駅から徒歩12分

駐車場:8台(無料)

■設計:小林利助(竹中工務店)

■施工:竹中工務店

■竣工:1937年

■登録有形文化財(2009年)

 

《四つのクローバーが印象的》

(ネットより幾つか写真を拝借しています)

 

ひつぞうです。小林一三記念館の続きです。次は逸翁の終の棲家となった雅俗山荘を訪ねてみました。

 

★ ★ ★

 

雅俗山荘の謂れは「雅=芸術」「俗=実生活」が同居する邸宅という意味で、逸翁みずから名付け親となった。竣工は戦争前の1937(昭和12)年。請負は竹中工務店。「竹中といえば関西」というイメージだが、もとは尾張名古屋の宮大工の家系。竹中藤右衛門(14代)が神戸に進出したのも、三井銀行名古屋支店時代の一三の知遇によるそうだ。

 

 

ファザードはハーフティンバー様式に則りながら、段違いの招き屋根っぽい変わった工夫も。

 

 

玄関は黄色く温かみのある石材で装飾。

 

 

武庫川の甲子園ホテルと同じ日華石と踏んだがどうだろう。

 

因みに山荘内部はレストラン利用者以外も見学可能。

 

「お邪魔しますゆ」サル

 

 

屋根の梁材も北部欧州風。逸翁の肖像画が出迎えてくれる。

 

 

隣りの間がかつてのサロン。

 

「すっごい!」サル

 

1957年、84歳で逸翁が没すると、2009年に現在の逸翁美術館が完成するまで、コレクション専用美術館として公開された。現在は往時の姿に修復されて来訪者を待っている。

 

 

茶の湯仲間が集まってワイワイやっていたのだろう。

 

「サルはワインこぼしゅ」サル

 

やりそうだねあせ

 

 

吹き抜けの天井が高い。

 

 

暖炉の装飾も細かい。

 

 

では二階へ。

 

 

個人邸宅でこれだけの規模のオープンフロアの階段は初めて眼にする。

 

「ほとんど公会堂みたいだの」サル

 

(全体配置図)

 

まずは階段を直進して書斎へ。

 

 

逸翁愛用の机。書棚は造りつけ。

 

 

その右隣りが応接間。

 

 

このバスルームは逸翁専用だったそうだ。

 

「わりと地味だにゃ」サル

 

「こう夫人のそれと比較すると面白いですよ」とスタッフに言われたので後で観てみることに。

 

 

和室。床は美術館時代に張替えたのだろう。

 

 

特には書いていないけれど寝室?

 

 

これが夫人専用のバスルーム。

 

「リカちゃん人形の世界みたい」サル

 

逸翁用の簡素なそれに較べてモダンでフェニミン。昭和12年の制作であることが驚き。シモジモはまだ行燈にロウソクだよ。

 

一度戻って展示室へ。

 

 

実業家と数寄者の二つの顔を持つ逸翁の人脈は信じられないほど広い。

 

慶應の先輩で東邦電力(現中部電力)幹部の松永安左エ門。理論派相場師の走りで野村證券創業者の野村徳七(二代)。東洋製罐創業者の高碕達之助。数え挙げればキリがない。というよりも、この時代の経営者はまず間違いなく茶の湯と骨董にハマっている。その横の繋がりで人間関係を構築した。その意味で戦国武将と似ている。

 

 

追贈された昭和天皇からの勲一等瑞宝章の勲記。

 

 

これがその勲章。

 

 

雅俗山荘の銘入り四方盆

 

 

遺品は全てこだわりの細工が施された一級品だ。

 

 

青年時代から文学好き、芝居(特に歌舞伎)好きだった。長谷川一夫、森繁久彌、原節子、高峰秀子三船敏郎。東宝映画に関わり(五社協定の枠を超えて)芸能関係者との交際も広かった。越路吹雪扇千景、寿美花代など、もちろん歌劇団出身の女優も。そして文藝の世界では、谷崎潤一郎、与謝野晶子、菊池寛など大物と近しい関係を結んだ。

 

では庭園へ。

 

 

この小さな潜り門から入る。

 

 

貸茶室の人我亭だ。

 

 

比較的新しい。毎年逸翁の命日(1月25日)に茶会が催される。奇しくもこの日の三日前。危なかった。こうして静かに鑑賞することはできなかっただろうね。

 

「ふだんめっちゃ間が悪いもんね」サル 気の毒なくらい

 

 

とても簡素な造り。

 

 

裏庭に続く縁先に敷かれた玉石が鹿の足跡のようだ。

 

 

人我亭の縁先。

 

 

炉は中央に切られている。

 

 

裏庭から見た雅俗山荘。巨大な一枚岩が敷かれている。ボウ・ウィンドウっぽい張り出し窓が眼を惹く。

 

 

テラスルームがレストランになっている。

 

「これから皆で愉しくやるのね」サル

 

うちはまた今度ね。

 

 

南側から全体を仰いでみる。黒い梁とベージュの漆喰。英国のハーフティンバー式を模したものだろう。京阪神地区の洋館によく見られるスタイルだ。そして、右側に張り出した一画が国の登録有形文化財の茶室《即庵》

 

 

「華奢な板ガラスだのー」サル

 

茶室を椅子が囲むスタイルは珍しい。逸翁の美意識の表れらしいよ。「即庵」の扁額は即翁の雅号を持つ数寄者仲間の畠山一清の揮毫篆刻。ちなみに畠山は水処理プラント・エンジニアリングの大手、荏原製作所の創業者だ。

 

 

まだ一月だったので常緑樹の緑だけが目立つが、今頃はツツジの花が咲き綻んでいるのではないだろうか。季節の花が愉しめる庭園として知られている。

 

 

その南側の奥にまた茶室が。

 

「お隣りも豪邸だの」サル

 

逸翁のお孫さんが暮らしているそうだよ。

 

 

こちらも国指定重要文化財の《費隠》だ。昭和19年に移築された京都の茶室で、名付け親は親交のあった近衛文麿花入(銘「錦」)茶杓(銘「代々」)を開席の記念に逸翁に贈っている。

 

 

その近衛公は服毒して自決。雅俗山荘もまた終戦翌年の5月にGHQに接収されることになる。その際、ここから見える南邸に移り住んだ逸翁は、その後、この費隠も移築したそうだ。

 

 

扁額の揮毫は近衛公の自筆。

 

 

逸翁晩年の邸宅、雅俗山荘。折衷式建築に草庵茶室と見所が多かった。

 

 

長屋門の表には立派な桜の樹が張り出していた。今年も素晴らしい花散る御門を見せてくれたに違いない。是非とも花の季節を見越して訪ねて欲しい。このあと逸翁美術館でコレクションを拝見して帰ることにした。

 

「まだまだ続くのね」サル なかなか挫けないにゃ

 

(つづく)

 

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