名勝 哲学堂公園
℡)03‐3951‐2515
往訪日:2023年5月5日
所在地:東京都中野区松が丘1‐34‐28
古建築の公開:
(春期)4月29日~5月5日:9時~17時
(秋期)10月1日~10月31日(土日祝):9時~16時
(月例)第一日曜:10時~15時
料金:無料
アクセス:西武新宿線・新井薬師前駅から徒歩約12分
※写真撮影可能です
《重文入りも近い?》
※一部ネットより写真を拝借いたしました
ひつぞうです。我が家のGW最後のイベントは某ラーメン店往訪でした。その顛末は後に記すとして、予約から実食まで時間があいたので、以前から気になっていた中野区の哲学堂公園を訪ねました。以下、往訪記です。
「哲学きゃあ」 むっちゃ苦手~💦
大丈夫。結構面白いから。
★ ★ ★
どこで覚えたのか既に記憶は朧気だ。妖怪博士の井上円了が先だったかもしれないし、謎の古建築群、哲学堂だったかもしれない。
まずはおサルのためのおさらい講座から。
「ふむふむ」 どんなひとだったの?
井上円了(1858-1919)。明治、大正期に活躍した大哲学者、教育者。長岡藩浦村(現在の新潟県長岡市)の真宗寺院の長男に生まれる。幼くして秀才ぶりを発揮。東本願寺の推薦で国内留学生に抜擢され、東京帝大哲学科を卒業。仏教、儒教、西洋哲学を広く修め、その普及と教育に生涯を捧げた。円了が設立した哲学館は今日の東洋大学にあたる。
★ ★ ★
拉麺の予約を無事に終えて、祐天寺駅から東横線で渋谷駅まで移動し、山手線、西武新宿線と乗り継いで、新井薬師駅でおりた。東京と言えば、どこもかしこも新宿や池袋と同じく、猥雑な匂いが瀰漫し、人で溢れ返っているという思い込みを抱いて50年以上生きてきた。
なので、生活感溢れた、喧噪から遠く離れた往来に降りたつと、そこが東京の一角であることが嘘のように思える。線路を南北に横断する哲学堂通りを北東の方角に歩いていった。
「ここホントに二十三区?」
神田川の支流、妙正寺川を越えたところが哲学堂公園だった。
既に新緑の季節を迎えたその公園の面積は約52,500㎡。広大な敷地内にテニスコート、野球場、弓道場などが整備され、都民の憩いの場として親しまれている。だが、そもそもは井上円了が1909(明治42)年に整備を始めた修養場だった。
古今東西の哲学用語が鏤められた施設がずらりと並ぶ。その数なんと七十七場。とてもではないが、全て網羅できない。主要建築を中心に訪ねることにした。なお、四村橋から入場すると裏側になる。といって、反対に回る時間はない。このまま入るとしよう。
「遅れたらラーメン食い損ねるしね」
ちなみに正門はこんな感じだ。午後6時には閉門される。ご注意のほど。入場は無料。ただし古建築群の内部公開はGWと10月。そして毎月第一日曜だけ。意外にハードルが高い。なのでGWの晴れの日を狙ったわけ。
江戸と明治がいまだ一緒くただった時代に、仏教や儒教、そして(専門用語すらなかった)ギリシャ哲学のソクラテス、ドイツ観念論のカントを円了は習得した。
それぞれの哲理はすぐに飲み込んだが、矛盾なく四大哲学を統合することに苦しんだ。だが、さすがは稀代の秀才。ある日突然、光明が差すが如く、世界の絶対真理を悟ったらしい。
「ほうほう」 よく判らんがそれで?
円了は「諸学の基礎は哲学にあり」と、啓蒙活動と専門教育機関の設立を決意する。その予定地がここだった。こうして三度の世界旅行と、全国津々浦々まで講演旅行をして回る。民衆への啓蒙に拘る理由は「一部の人間だけが高い知識を得ても日本は変わらない」という、揺るぎない信念があったためだ。
そして、1904(明治37)年に最初に建設されたのが、世界の四聖人、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った四聖堂だった。
=四聖堂=
瓦葺きの木造平屋建て。当初はこの建物が哲学堂と呼ばれていた。
中には彫刻家・和田嘉平治作の釈迦涅槃像と「南無絶対無限尊」と刻まれた唱念塔が設えられ、天井からは何やら怪しげなピンク色のガラスの球体と香炉がぶらさがっていた。これは物(香炉)と心(球体)の二元論を表しているそうだ。失われた球体は、写真も図面も残っていないため、想像上のレプリカになる。
「このあとドンドン建物を増やしたんだ」
そういうことよ。
次は1909(明治42)年建立の六賢台だ。
=六賢台=
「お寺の五重塔みたいなもの?」
相輪の形は似ているけれど、塔身の構造は違うね。六角形は東洋の六賢人、つまり、荘子、朱子、龍樹、迦比羅仙、聖徳太子、菅原道真を象徴している。かつては最上部に賢人を祀る扁額と小鐘が設置されていた。残念ながら内部には入れない。
「殆ど知らん人だの」 聖徳太子と道真は判る
無理して知る必要はないと思うよ。
次は六賢台の正面に立つ無尽蔵に行ってみよう。
この日は天気が良かった。ちなみに2020年に国の名勝に選定されたせいか、そこそこ見学者がいた(写真はトリミングしています)。
=無尽蔵=
正確な建設時期は不明だが、1909(明治42年)~1912(明治45年)頃だろうと言われているよ。
円了が外国旅行や国内の講演旅行で集めた蒐集品の収蔵庫だったそうだ。しかし“無尽蔵”とはいかなかったようで、収蔵品は区立歴史民俗資料館と東洋大学井上円了研究センターに移設されている。
「とりあえず入ってみゆ」
行こう行こう!
国内外を広く講演して回った円了は、旅先で見つけた珍品を大切に持ち帰った。昔の大偉人にはこうした物好き博物学的嗜好の強い人物が多いね。
上左から順に
厄除之神(伊東)、身代わり地蔵(佐渡)、台湾仏像、マニ車(西蔵国の仏器)、ラップランドのトナカイ製ナイフ、アルマジロ製の籠、亀の剥製、南アフリカの煙管、仏教聖樹《無憂樹・沙羅双樹・菩提樹》
「哲学の講演とは関係ないんぢゃね」 もらっていいのか仏様を
たぶん、家族からは「どーすんのこんなもの持ってきて」と呆れられただろうね。今では立派な民俗(民族)学的資料だけど。他には人間の頭蓋骨や鉱物、砲弾など、ありとあらゆるものを集めたんだ。
現存する施設や設備のかつての写真だね。
四聖堂の初代の擬宝珠だ。
同じ頃に造られた東屋のような建物が少し小高い場所に建っているよ。三學亭だね。
=三學亭=
「ほんとに三角形なんだ」
そうそう。三學と三角。音韻が似ているでしょ。中には日本の三賢人の石額が掲げられている。
林羅山(儒教)、釈凝然(仏教)、平田篤胤(神道)。それぞれの分野でとりわけ著述の多かった碩学を祀っているそうだ。
次は宇宙館だよ。
=宇宙館=
1913(大正2)年に建設された、円了による講演室だ。
内部にはやはり和田嘉平治作の聖徳太子立像。円了の偉業を紹介するVTRが流されていた。
その正面が絶対城だ。
「どれもこれも仰々しい名前だにゃ」
地方のトンデモ施設の原点かもね。
=絶対城=
「ここはなに?」
図書館として1915(大正4)年建設された。
銘板を支える唐子の眼が怖いね。
中央には真善美の三文字。これってカント哲学の重要なキーワードなんだ。
でもその下には孔子様。なんでもありだな。
「二階にも上がれるにゃ」
立派な彫刻も施されているね。
婦人用の閲覧室だ。女性に学問は要らないっていう時代だからね。円了の思いが込められている。
かつては円了の蔵書でびっしりだったけど、勿論移設されている。なかなか厳かな雰囲気だった。
=哲理門=
正門と建築群が集まる中央広場(時空岡)を繋ぐ門なんだけど。
不気味な別称があるんだよ。その名も《妖怪門》。
ロジカルな哲学の世界にいきなり妖怪だもの。ちょっと面喰うよね。
でもほら。中には仁王様ではなくて天狗様。反対には幽霊の彫像があるんだけど、撮るのは止めにした。結構気が小さいのよね。
「知っているよ」 チワワなみに心臓が早鐘打ってるもん
強靭な論理性を示しながら「森羅万象の根幹には妖怪がいる」と言って憚らなかった。一見いかがわしい神秘主義のようにも聞こえるが「妖怪とは人間の心の問題」と読み解いていた。つまり円了の妖怪学は心理学の延長線にあったのだろう。
老朽化が原因だろうか。直接見学できない施設もある。以下、ザっとメモしておく。
=靈明閣=
=天狗松=
かつては松の大木があったそうだ。
=筆塚=
哲学堂は全国の講演先で揮毫した謝礼を基金として築造された。その筆を供養したものだ。
=四阿=
=髑髏庵=
かつての休憩所。非公開。
=一元牆=
といった感じで、ほぼ駆け足で回り切った。そろそお暇しようか。
「短い時間でよく回り切ったにゃ」
=三祖苑=
最後に《三祖苑》で、中国の黄帝、印度の足目仙人、ギリシャのタレスに一礼して公園を後にした。最高学府に学びながら、官職の道を蹴って啓蒙活動に邁進した円了。不思議なものが大好きで著書『妖怪学講義』でむしろその名を残した感のある円了。61歳で惜しまれつつ亡くなったあと、遺言に基づき哲学堂公園は東京都に寄贈された。
「時間がないだよ」 戻ろう!
メモ魔はサガなんだよね。ということで一目散でラーメン屋に向かうサルヒツジであった。
(つづく)
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