旅の思い出「馬高縄文館」(新潟県) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

馬高縄文館

℡)0258-46-0601

 

往訪日:2019年12月22日

所在地:新潟県長岡市関原町1-3060-1

開館時間:9時~17時

料金:200円 高校生以下無料

アクセス:北陸・関越道 長岡ICより約5分

駐車場:普通車48台

 

≪近藤家の家宝?だった火炎土器≫

 

こんばんは。ひつぞうです。今夜は中越湯けむりの旅の最終回。寺宝温泉を出発した僕らが向かったのは馬高(うまたか)縄文館JA越後なじら~ての店先に縄文遺跡があるのを以前訪ねて覚えていたんだ。

 

「新鮮お野菜きゃう!」サル

 

好きなだけお買いよあせ

 

ということで冬野菜を好きなだけ買わせたあと、いそいそと向かった。遺跡展示館ってけっこう空いているんだよね。海外の古代遺跡にはこぞって出かけるのに日本人って変なの。

 

「だって日本の遺跡って地味じゃんね」サル

 

発掘が終わったら(風化しないように)埋め戻して広場になっちゃうからね。でも都内で企画展をやると長蛇の列でしょ。一見の価値はあると思うよ。

 

 

~馬高三十稲場縄文遺跡 調査の歴史~

 

江戸の昔から信濃川流域の丘陵地帯で土器が出土することは知られていた。発掘調査が進むのは明治時代以降。大地主の近藤勘太郎、勘治郎、篤三郎の親子三代の貢献が大きいと言われるよ。その後も郷土の歴史家中村孝三郎先生の研究の成果もあって、1979(昭和54)年に国指定史跡になり、出土した火焔土器は重要文化財に認定された。

 

 

さすが親子よく似ているね。お祖父さんの勘太郎さんはすごい豪傑で、官軍の兵士が勝手に庭の松の巨木を見張り台に利用したことに猛烈に抗議したんだとか。下手すれば打ち首になっても仕方ないご時世でしょ?

 

「たしかに頑固そうだにゃ」サル

 

地方の郷士というのはなんで骨董好きなんだろう。『なんでも鑑定団』でも出てくるよね?こういう(判ってなくても)壺とか蒐集するのが好きなひと。

 

 

ということで調査とは云いながら、気に入ったものは片っ端から収集した大量の土器を、根気よく分類修復したのが、地元の研究者・中村孝三郎先生だった。ここにおいて火焔土器の名称が誕生する。

 

 

ひとつ大切なことは、縄文広場の整備や縄文館落成で終わりなのではなく、その後も県教育委員会が中心となって、発掘調査が継続的に行われている点だ。縄文式土器=火焔土器のイメージの嚆矢となった遺跡としての矜持もあるだろう。忘れられた過去の“遺跡”とならないように、僕らも見守りたいね。

 

 

なお教科書に掲載されている国宝指定の土器は、十日町市の笹山遺跡の出土品。馬高の調査(1936年)からくだること約50年の土器が、火焔土器の標準のように思われがちだが、標識遺跡はここ馬高なのだ。ちなみに東京国立博物館所蔵の火焔土器は馬高出土と伝えられている。

 

~縄文館の構成~

 

内部は以下の2コーナーで構成される。

 

■火焔土器コーナー

■馬高遺跡コーナー

 

ワンフロアを反時計回りに周回するだけなので、三十分もあれば見学可能。

 

 

ちょうど開館10周年だったみたいね。

 

 

なかなか立派な展示ブース。

 

火焔型A式1号(重要文化財)

 

入り口中央に展示されているのが三代目篤三郎翁が1936(昭和11)年の大晦日に発見したという火焔型A式1号土器である。口縁部の鶏冠のような装飾を炎に見立てて火焔土器と名づけられた。近藤家の床の間を飾っていたのかもね。

 

■馬高遺跡コーナー

 

馬高遺跡の復元ジオラマの前に座ってボタンを押すと、かつての縄文人の生活の解説が始まる。長岡の丘陵地帯が選ばれたのは(三内丸山遺跡と同様)狩猟採集にふさわしい土地だったのだろう。集落は広場を中心に同心円状に構成され、住居・倉庫群が取り巻くように建てられた。

 

(真ん中の小さなミニチュアは獲ったイノシシをぶら下げている、細かい!)

 

ある時を境に集落は一旦放棄され、北側に新たな集落が築かれる。馬高遺跡(中期5000年前)と三十場遺跡(後期4000年前)の間には、千年の時代のギャップがあるため、土器や石器に違いがみられるという。

 

■火焔土器コーナー

 

 

壮観だね。まるで伊勢丹の売り場のようだよ。

 

 

いろんなタイプがあるのが判る。完全な形で出土していれば第二の国宝が誕生していたのだろうが、すべて精巧な修復品。

 

 

割合でみると火焔土器はわずか7%しかないんだ。知らなかった。

 

 

でもどうよ。この渦巻模様というか、唐草模様というか。線に迷いがないんだよね。何年も修行を重ねた果てに得られる職人技のようなものを感じる。たかだか土器の破片と哂えないような。

 

 

内側におこげの痕があることから、実用的にも使われていたと推測される。

 

 

装飾部分は粘土の紐を深鉢に取りつけて練り込んで形成されたらしい。設計図に従って造るというより、練り込んでいるうちに「こんなんできましたけど」って感じか。

 

 

沿海部に広く分布する火焔土器だが、浅鉢はここ馬高特有の形式だとか。

 

 

そして謎とされるのが、この三角土壔製品三角形土板。祭祀用とも言われるけど、本当の制作目的は判っていない。この周辺の特有の出土品。

 

そして当館の眼玉のひとつがこれ。

 

 

土偶のミス馬高

 

「もうちょっとなかったのち?ネーミング」サル

 

そうね。ミス〇〇は安易だったかな。注目すべきは頭部の構造。中空になっていた形跡があるよね。下の出土品もそうだけど、土偶って意図的な破壊の痕が見られるから、不妊や災厄を祓うための身代わりとして使われたのだと思う。

 

そして、食糧確保と子孫繁栄こそが一族の関心の的だったはず。たからこそなにか、まぐわいを仄めかすような、そういうね、儀礼の痕のような…。

 

「なにをごにょごにょ言ってるのちにゃ!」サル

 

いや。学究的な論考ですよ。マジで。

 

 

女性があれば男性もあった。

 

 

住居の炉や屋外に立てたものだそうだ。新潟の遺跡では珍しくないけど、ここ馬高の石棒は四角な柱で先端部が扁平に加工されるなど、様式化しているのが特徴。

 

石棒(中道遺跡出土/長岡市)

 

ま。現代に通じるものもたくさんある。この時代にしては余りに精巧すぎない?定規もなにもない時代なのに。

 

「ひつぞうみたいに、やり始めたら何時間も没頭できる縄文人がいたんじゃね」サル

 

なるほど。

 

 

ちなみに集落はこのように発掘された。

 

 

なかなか興味深かったよ。人間の歴史はたかだか一万年くらいなのだろうが考えていることは全然変わっていないということもよく判った。

 

「土器の話はどうなったのちにゃ!」サル

 

(おわり)

 

マニアックな趣味の垂れ流しにおつきあい頂き、ありがとうございます。