hits-keyの先天性PTSDってヘンですか?

先天性PTSDの たにぐち"hits-key"明生が,うつ病や依存症などと言われる症状をはじめとした 心の問題の対処法を語ります。宗教を科学的に解明します。宗教は「本物です」。そして、人生に必要です。また,独特の切り口で社会問題をみていきます。


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本題に入る前に私事ですが、
あいかわらず、私を追い立ててつきまとう連中がいるので、生活は安定していません。
私は、最初っから争う気はないのですが、向こうの都合で向こうが勝手にケンカをしかけてきています。
無視していますが、顔を合わせたら戦闘は必定ですから、私のほうがいかに避けるかを考えないといけません。
ですから、生活が安定していません。多くのひとが当たり前にしている日常生活が、私には、ありません。

人間というのは、自分勝手で面倒な生きものですね。
こんなんですから、ヒトというのは生物でありながら、ほかの生物未満でしかないのではないかと、私は感じています。




ヒトは、他の生物とは異なる規格外品です。
ヒトは、自我の確立度合いが、規格外です。

現代では、自我があるということを、肯定的にとらえて自己正当化しようとするひとのほうが多いのでしょう。
西洋近代の価値観では、自我が確立されている、理性があるということを肯定的にとらえます。
ですから、彼らは、理性的ではない=野蛮だという扱いをするのです。

しかし、自我が強いから、争いを起こしたり、他者を攻撃したり、生活環境を壊したりするのです。
そして、自己正当化をします。




旧約聖書では、ヒトが禁断の知恵の実を食べたことで、唯一神のもとを離れるくだりがあります。
この「知恵の実」は、厳密には、「知恵」ではありません。
自我、理性ですね。
自我、理性が発現したことで、自と他の区別ができます。
そのことで、男女の区別も自覚しますし、神と自分の区別も自覚するようになってしまいます。

他の生物は、唯一神のつくったとおりに生きている、「規格どおり」の存在です。
それに対して、ヒトは、「規格外」になったのです。

旧約聖書は、このことを示しています。




ヒトに自我が発現したのはなぜか。
おそらく、ヒトは弱い生物でありながら、生き残ろうとしたからでしょう。
それで、自と他、味方と敵を区別して認識する、分別的知覚を発達させたのでしょう。

ヒトだけではなく、多くの生物にも、生存本能があります。
ヒトほどではなくても、自我の成立度合いが強めな動物があります。
自と他、味方と敵の区別はもちろんですが、
生き残ろうと思ったときに生じる感情は、「恐怖」「おそれ」です。

自我が強いということは、恐怖の感情が強いことでもあります。
また、自分を守ろうとする感情が強いので、自己正当化の意識も強いのです。




自我が強すぎることは、とてもやっかいです。

他者をおそれ、自分こそが生き残ろうとし、自分こそが得をしようとします。
自分こそが楽に生きようとします。
自分こそが正しいと主張します。

ですから、争いごとが起こりますし、欲が強くなりますし、
自分こそが正しくて、他者は誤りだと主張したがります。

そうやって自分だけが得をしようとすると、
全体が生き延びるという観点でみればかえって失敗することになってしまうのです。

戦争にしても、競争社会での生きづらさにしても、いわゆる環境破壊の問題にしても、
自我が強すぎるがゆえの失敗なのです。
自我が強すぎるから、多くのひとは、他者を押しのけて生き残ろうとします。
押しのけられた人間や、押しのけられた(殺された)生物や、押しのけられた(壊された)地球などが、傷つくことになるのです。




近代の西洋人は、理性主義を推し進めて、理性・自我があることを自己正当化しました。
これは、アホです。わかりますよね。
理性・自我を正当化したいという感情自体が、自我の呪縛のうちにあるからです。
自我の肥大化、わがまま、自分勝手を、正当化したのです。
そして、自我が強くないからあるがままに生きられている、生物や民族・部族を、野蛮だと決めつけたのでしょう。
バカです。思い上がりもはなはだしいのです。

旧約聖書は、自我の肥大化が原罪だと言っているのです。
そうやって、ヒトを戒めてくれているのです。
バベルの塔の失敗も、ノアの方舟の逸話も、我の強い人間はいかんのだと教えてくれているのです。

宗教ルネサンス(宗教改革)で、聖書原典主義に立ち戻ったはずの近代西洋人が、
聖書のことをわかっとらんから、
自我の暴走を招いたのです。




近代以降の西洋人も、いまの日本人の多くも、
自我が確立されていること、個人の意識が強いこと、「オトナ」であることを、良いことだと考えているでしょう。
そして、日本人は、個人の意識が弱い傾向があるから、西洋人に負けているのだと思い込んでいるのではないでしょうか。

本当は、そうではありません。
日本人の生き方は元来、みずからを律して、他者と調和する生き方です。
自我を暴走させている近現代の西洋人のほうが、まちがいです。




いまの日本人には、
個人の意識が強い方が良いのだと思っている(西洋人のマネ)のに、
自律・自制する生き方が欠けている人間が増えました。

自律・自制が機能すれば、まだバランスはとれるはずなのです。
たとえば、古くからある日本人の生き方・習俗、つまりは、古代神道(神祇信仰)的な調和の生き方であってもよいし、
旧約聖書に見られるような本来のキリスト教などの生き方であってもよいのです。
本来の仏教も、自律してみずからをただそうとする生き方論です。

しかし、いまの日本はおよそ、「無法地帯」です。
生き方・習俗なき「無宗教」は、「無法」です。




自然信仰があるとか、個人の意識が弱いとかいった部族・民族は、
野蛮であるとか間違っているとかというわけではないのです。

たとえば、日本も、インドも、自然と調和する生き方をしてきた、自然信仰の民族です。




聖書における唯一神は、世界の原理であり、世界全体のことなのでしょう。
世界の理にしたがう生き方は、調和の生き方です。
唯一神にしたがう生き方は、自律・自制の生き方です。

当然ながら、自然信仰は、自然との調和を模索する生き方です。
自律・自制の生き方です。

世の中では、一神教と多神教という区別がされていますが、まちがいです。
たとえば、日本語の「かみ」と、中国語の「神」と、英語の"God"は、意味が違うからです。
それなのに、同じものだと勘違いしているから、一神教と多神教だ、おたがいに矛盾していると思い込んでしまうのでしょう。

そうじゃないのです。




ヒトには自我がある、自我が強いというのは、単なる事実です。
この事実を肯定的にとらえるのか、否定的にとらえるのか。それは、人間の価値判断の問題です。
いずれにしても、みずからの生き方をただして、自我が強いことによる弊害を極小化しないといけないのです。

「ヒトに自我があるのは、神様をみるためだろう」と言うひともいます。

自我がなければ、自と他の区別はできませんから、神の存在を考えることもありません。
ただし、自我がないということは、神と一体であるということも意味します。

旧約聖書に書かれているように、自我が確立されたから、神と離れてしまったのです。

いや、厳密に言えば、一体でありながらも、別々だと思い込んでいるのでしょう。




この宇宙の存在や、この地球の存在、生命の存在、そして、ヒトの存在。
すべてが、「ゆらぎ」から生まれた、規格外。一種のバグであるのかもしれません。
「なぜか?」という問いをしても、一義的な結論は出ないでしょうね。

そもそも、「なぜか?」という問いには意味があるのか?
人間が考えなければならないのは、「自分たちはどう生きるべきなのか?」ということ。
釈尊も、それを主張していたのです。


ぜんぶ、生き方にまつわる思想哲学なのです。
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