初めての方へ自己紹介 | 3ヶ月後に昔よりも今の方が綺麗だね!とあの人に思われる方法

3ヶ月後に昔よりも今の方が綺麗だね!とあの人に思われる方法

恋も仕事も現役復活!自分らしさでもう一度お花を咲かせたいアラフィフ女性対象


テーマ:

アラフィフ女性の皆様(そうでなくても大歓迎です)

 

モデルからグラフィックデザイナー、ライターからグローバルライフコーチへと進化し続けるアメリカ在住26年の上山仁子です。 

 

わかりやすいように自己紹介の文章を書いてみました(簡単なプロフィールもどうぞご覧ください)。

 

アメリカはニューヨークに15年ぐらい住んでいましたが、現在は長男が大学生となり家を出たので、下の子ども2人と一緒にノースカロライナ州に住んでいます。花のシングル(マザー)です。w

 

ちょっと長くなりますが、お付き合いください。

..................................................

 

 

挫折の多い少女期とバブルで派手な学生時代 

 

子どもの頃からヘルマン・ヘッセやゲーテなど精神的苦悩が描かれた本が大好きな読書の虫でした。スパルタ教育を受けていたピアノに挫折し、高校大学と2つの受験でも失敗しました。 

 

そんな時に「あなたは踏まれても踏まれても起き上がる麦のように強い人」ともらった母からの手紙は今でも大切に取ってありますが、今思うと、今までの人生ずっとその繰り返しだったような気もします。 

 

でも、とっても幸せです。いろいろあるのは変わりませんが、人生って素晴らしいなと思えるところにたどり着いてます。どういうわけか(w)。 

 

昔は壁にぶち当たる度に「幸せって何?」とか「どうして私が?」などと幸福論や人生論などの哲学書をあさっては、友達と語り合っていたんですけどね。 

 

どちらかというとおとなしいタイプの少女時代でしたが、自分でも思うところがあり、今までのおとなしい殻から抜け出して、学生時代にはモデルをしたり友人女子大生たちと一緒に「テレフォンギャル」として毎週フジテレビの朝の番組に出演したりもしてました。時代も華やかだったので、各種イベントコンパニオンなんかもやっていました。 

 

ニューヨークへの留学費用もその時に稼いだお金でまかないました。 

 

全日本プロレスの花束嬢として試合前のリングにあがり、スタン・ハンセンに花束をあげるはずが受け取ってもらえず、当時悪役でロープを振り回して観客を挑発していたハンセンの後を追いかけてリング上であたふたした姿はしっかりとテレビ中継されてました。 

 

勢いがあって怖いものなしの青春でしたね(w)。 

 

 

モデルからグラフィックデザイナーへ 

 

80年代の半ば。新宿伊勢丹本館2階だったと思いますが若い女性をターゲットにした「シンデレラシティー」という売り場ができました。私は「シンデレラプレス」と呼ばれたそのPR誌の創刊号表紙モデルになりました。 

 

「シンデレラプレス」創刊号表紙写真
撮影:森昌美 ヘアメイク:金井豊

やっぱり眉毛太いですね。金井さんは今やカリスマ美容師になったと聞いています。

 

 

撮影でお世話になったアートディレクターの鈴木誠さんから誘われて、彼のアシスタントデザイナーとして働き始めることになったのは人生の転機です。 

 

丁度その頃、水疱瘡になったんですね。顔にポツポツがたくさんできて、しばらくモデルなんてできないってなったので、モデル業はそこで諦めました。 

 

ここから当時の東京の広告業界では当たり前だった毎日終電まで働くという過酷な生活となりますが(男性は徹夜したりしてました)、私がデザインの仕事の基礎を全て鈴木さんから学べたことは、本当にラッキーだったと思っています。 
 
アシスタントデザイナーとして季刊誌「イプサ CawaiiClick」、宮沢りえちゃんのふんどしカレンダー、そしてその後デザイナーとして独り立ちしてからは長野オリンピック招致活動などに携わりました。 

 

デザイン業界でもアップル社が開発したコンピューターマッキントッシュの到来が、日本でも囁かれるようになった頃、東京でのバブル経済は怪しくなりました。 

 

 

ニューヨークへ

 

離婚したことやデザイナーとしての今後の身の振り方を考えるために、1992年、渡米します。 

 

ニューヨークのアートスクール、The School of Visual Arts, NY のグラフィックデザイン科に入学。コンデナスト系列の雑誌社「ニューヨーカー」でインターンを経験。 

 

デザイナーとしては「ニューヨーカー」でのインターンは刺激的ではありませんでしたが、そこで「クオリティーの高い」人たちと触れ合うことができました。

 

編集長はティナ・ブラウン。当時は時の人で、毎日彼女のオフィスには花束が届いていました。

 

デザイナーとして尊敬するソウル・バスとはパーティーで会うことができました。「ニューヨーカー」特別記念号でご一緒した写真家のアニー・リーボヴィッツも普通の女性なんだ、と思ったこと。彼女から「ヒトコ」と呼んでもらった時の喜びは忘れません。

 

留学生はヴィザの問題で苦労するのですが、私はそういうこともなく、映画のタイトルをデザインするポストプロスタジオに卒業後、すんなり就職しました。アートディレクターとして働き始めました。 

 

その後もデザインファームに転職したり、日本のスポンサーを得て自分のオリジナルスカーフをプロデュース・デザインして世界へ売り出すなどしましたが、デザインの仕事はそんな感じ、ずっと順調です。 

 

未完了な部分が多い私の人生の中で、約30年間どんなことが起ころうと変わることなく天職として私の人格結成のコアな部分となってくれています。 

 

 

「ニューヨークへ行ったら私がいました」 ライターとしての新しいミッションが誕生 

 

アメリカでプリントからウェブサイトにデザイン市場が移りつつあった90年代後半に真っ先に自分のドメインを取得しました。 

 

プリントのデザイナーとしては悩みましたが、新しい時代の到来をひしひしと感じていた時でした。 

 

ウェブデザインは「シンプルテキスト」で独学でコーディングも学びました。 

 

自由になんでも発信できるウェブサイト上で自分の思いを伝えるメッセンジャーとなり、私のライターとしての意欲がどんどん大きくなっていきました。 

 

国際結婚や出産を通して伝えたいことも増えていきました。

 

長男の出産後の産休時に最初のエッセイ本となる原稿を一気にまとめました。2冊目はその本のプロモーションで書いていた出版社発行のメルマガに書き下ろしを加えてまとめてもらったものです。 

 

その後、メルマガやウェブマガジンも多数発行しました。  

 

2005年に始めたアメブロの子育てブログは最高PV1日3万を誇っています(現在の月間PVは平均2.5万ぐらい)。  

 

これらの発信を通して、子育てについての等身大体験や悩やみなどを包み隠すことなくオープンに公開しオンラインオフラインでたくさんの女性たちと交流。徐々に悩み相談なども受けるようになり、メール相談の数は500人以上に登ります。  
 
当時はまだソーシャルミディアがない時代で、ネットを通して知り合うことなどあまりありませんでしたが、そこから知り合った女性たちは50人以上になりました。  
 
この15年の間で多くの方々からHitokoさんと話していると「元気になる」とか「前に進めると思えるようになった」など前向きなお声をいただいています。  

 

最初のエッセイ本の帯に推薦文を書いていただいた東京のアシスタントデザイナー時代からお世話になっていたコピーライターだった故眞木準さんからの言葉は「ニューヨークへ行ったら私がいました」。 

 

その言葉通りライターとしての新しいミッションが誕生したんですね。 

 

 

 

 

ダブルインカムのワーキングマザーから養育費なしのシングルマザーへ 

 

3人の可愛い子どもたちに囲まれて、今でいうイクメンだったアメリカ人の夫とそれはそれは幸せな結婚生活を営んでいたと思いきや、人生が急降下しました。 

 

ニューヨーク同時多発テロを経験し、リーマンショックで夫の仕事は打撃を受けたり。 

 

それでも頑張ってなんとか乗り切っていたつもりですが、ミッドライフクライシスだったのか、極端なヴェジタリアンで反社会派活動家でもあった夫は9年前に突然失踪しました。 

 

それはそれは戸惑いました。 

 

夫とは国際結婚という枠だけでなく彼の思想についていけず、しかも私の価値観をも否定されたりと、いろいろありましたが、離婚はしないだろう、と思っていたからです。 

 

その時はニューヨークからノースカロライナに引っ越してきたばかりだったし、まだ慣れない土地で友達なども少なく、もちろん助けてくれる家族や親戚もなし。 

 

そもそも夫がニューヨークから離れたところへ引っ越したいと言うので、私はしぶしぶ(でも結果的には納得して)彼について来たのです。 

 

どうして私がこんなところに一人取り残されたんだろう? 


どうやって子どもを置いて仕事に行ったらいいんだろう? 

 

と本当に途方にくれました。 

 

不安が一気にのしかかって来ましたが、思い切って相談したらそこには優しく手を差し伸べてくれる職場の人たちや学校関係のママ友やパパ友たちの存在があったのですね。 

 

そしてたくさんの似たようなシングルマザーたちにも出会うことができました。女性一人ひとりにいろいろな事情があって、みんなが一生懸命頑張っているのだと言うことも学びました。 

 

それでも、今までは何の不自由も感じることなく生活できていたことが、急にあれ?ちょっと違う、と生活しにくくなったなと感じられることがあり、これがいわゆるシングルマザーや女性たちへの偏見と差別であるのだなと気がつきました。 

 

夫を失ってはじめて「女性が一人で生きていくこと」についての難しさに直面し、今までフェミニストを自称していましたが、その看板は前向きには下ろしていますが、もっと深いところで、女性が住みやすい社会とはどういうものかを考えるようになった次第です。 

 

女性が一人で家族を支える大変さは現在でも経験中ですが、不可能ではないことも身を以て知りました。差別や偏見があっても、やりたい気持ちがあるところでは、かならず可能になるとわかりました。

 

希望の光を見ることは、私たち次第でいくらでもできるんです! 

 

 

子どもたちのこと 

 

手のかかる時期の子育てから卒業し、精神的にはまだまだ大変ですが、身体的にはだんだん楽になってきました。

 

子どもたちは立派に成長し、母親としても苦労しただけ見返りとしてのご褒美をいただいているなと感じることも多くなりました。 

 

長男は昨年秋に日本の大学へ入学し、東京での生活を謳歌しているようです。

 

次男は今年の秋から高校4年生になり受験生です。今からその準備は頑張っている様子。

 

長女は、この春にテコンドー黒帯2段に臨みます。現在猛トレイニング中。

 

ダンサーになることを夢に見ていますが、もっぱらのところはチアリーディングやラクロスに燃えるスポーツ少女になりました。青春真っ盛り。恋話もすごいですよ(w)。 

 

勿論思春期ですからいろいろとあるのは当たり前で、反抗期などもそれはそれは経験しています。

 

私があまりそういう時期がなかった(と自分では思っている)ので、戸惑うことも多いですが、でも、それも自然なことですよね。大きな心で受け止めて通り過ぎていくのを待っている感じです。

 

基本的には母子家庭だけに母と子の絆も強く、とても仲がいいです。

 

子どもについては、本当に元気で健康そして幸せに、とそれだけを願っている日々ですね。

 

 

グローバルライフコーチの資格と取って

 

子育てに余裕が出てきたせいか、シングルマザーやワーキングマザー含め全ての女性にとって住みやすい社会となるように女性の平等と自立を支援することに自分のテーマがシフトしています。 

 

アメリカではカウンセリングは、ごく日常的に行われるものなので私もニューヨークにいた時から通っていましたが、多感な時期に最愛の父親との別れを経験した子どもたちとのティーンコーチングやグループセラピーなど、セッションは約150回以上になると思います。 

 

そんな自身の経験を生かして、コーチングにも興味を持ち始めました。 

 

コーチやカウンセラーから学んだアファメイション(引き寄せの法則)などの効果が実際に自分でも得られたと実感することができたからです。 

 

その後、コーチング・NLPに精通し、約1000人の女性にセッションをしてきた 吉田メイ氏より、ライフコーチングと英語コーチングの手法やポジティブ心理学について学びました。 

 

「Global Life Coach Certificate」 取得後、ずっと家族のために頑張ってきたのだけれど、どこかで未完了な部分がありやり残した感のある人や、誰かのために我慢して自分らしく生きて来れず悔しい思いをしている人のために、一歩踏み出して悔いのない幸せなセカンドライフを見つけるサポートをする「グローバルライフコーチ」としてアラフィフ女性の応援をする仕事をスタートさせています(資料はこちらで)。 

 

このブログでは、様々なバックグラウンドではあるけれど、似たような悩みや心に何かもやもやを抱えるアラフィフ女性たちと一緒に、人生100年時代のこれからを自分らしく幸せに生きるために、人生折り返し地点で今までを振り返り自分の棚卸し作業を提案していきたいなと思っています。 

 

 

人生は一度きり!という想い
 
素敵なパーソナルスタイリストの友人と一緒に同世代の女性を元気付けるための「YOLO計画」も立ち上げました(Create Your Life by hitoko ub design)。 


YOLO」とはYou Only Live Once のことで、人生は一度きりという意味のアメリカでは数年前に流行語となった言葉です。  
 
どうせ生きるなら好きなことして幸せになりませんか?

 

という痛烈な想いです。

 
幸せの扉を開けるのは自分自身。  


きっと勇気を出して開けた扉の向こうには素敵な人生が待っているから。 


私はサルサダンスから、人生は色気あってなんぼ、ということを学んでいますが、パーソナルスタイリストの京子さんは、女性は見た目気にしてなんぼです! と言っています。

 

つまり女性は、死ぬまでオシャレに気にかけていないといけない、ということ。

 

確かにその通りですよね。

 

年齢を重ねると出てくるのがその人の生き様でありスタイルだと思います。

 

若い頃はハウスマヌカンや(← 80年代の死語ですね!)誰かのコピーだけしてかっこよく見せていたけれども、今はそんな見せかけだけでなく、今迄生きて来た自分の生き様をスタイルとして表現し、中身も外身も「本物」として輝きたくないですか?

 

そして、その先にあるものは、心地よさであったり、自分らしさだったりするわけで、最終的にはそこで幸せを感じられるのが最高な人生、となるのだと思います。

 

内面的に磨いた女性としての輝きがはちきれるばかりに外へ放出されるように毎日できることは何かを考えています。 

 

まだまだこれから。なにか始めたいし、人生も変えたい。 

 

ここで諦めて老けこむなんて冗談じゃないですよね? 

 

よーし、今までの10年取すぞ! 

 

と思った時に「3ヶ月後に昔よりも今の方が綺麗だね!とあの人に思われる方法」というタイトルのこのブログを立ち上げました。 

 

ちなみにこのブログのテーマカラーにはキラキラ乙女が大好きなピンクを選びましたが、バックグラウンドには「バイオレットとグリーン」を使っています。その理由はこちらからどうぞ。 
 
生きててよかった!人生捨てたもんじゃない。 

 

それが私たちの合言葉になりますように。  

 

恋愛が全てではありませんが、恋のパワーはすごいですよ。

 

シングルの人は年齢に関係なく、そのパワーを求めたって誰からも文句は言われませんよね。 

 

パートナーがいる人だって、マンネリ化した生活や感情に変化を与えて再びときめくことだってできるんです。 

 

人生一度きりですから、死ぬまで自分らしく愛に包まれた生活を送りたい、と思うのは人間の権利でもあるわけです。 

 

 

自分の夢について 


ジャーナリストになりたいという子どもの頃からの夢は今でも追い続けており(今は休学中だが、米大学院でコースを受講中)、現在でもこのブログ以外にも、インフルエンサーを目指し、自分の思いや考えをグローバルに発信中です。  

 

それと、ハリウッド映画にデビューすること。 

 

10代の煮え切らなかったキャリアのリベンジを自分でも無意識のうちに図っているのかもしれないです(w)。

 

「ライフスタイル」モデルとして、今でも機会があったらオーディションとか行ってます。契約しているキャスティングディレクターはファッションよりも映画製作に強い人なので、映画出演のオーディションもあるんですね。なかなか刺激的な体験をさせてもらってます。

 

そして、同じくモデルをしている長男か長女と親子でNYタイムズスクエアのビルボードを飾りたい!とマジで願っているんですね! 

 

親バカですがモデルとしての長男の仕事ぶりです(上:左/下:右)。

 

かなり前ですが長女がコマーシャルデビューした時のもの。

最終列の最右のピンクのセーターです。

私もかなりなショービズステージママだったかも(w)。

 


 辞めて以来ずっと嫌いで弾くことがなかったピアノですが、最近は東京の実家に帰ると一日中でも弾いていたいと思えるようになりました。アメリカの家にいつかグランドピアノを買いたいなと思います。 

 

アメリカでは忙しさの中にも自分の時間を見つけて、サルサダンスを楽しんでいます。今までいろいろなことをしてきましたが、ダンサーとしてはまだ未開発。

 

いつかラテンの女性にも引けを取らないぐらいにセクシーにかっこよくサルサが踊れるようになれたらいいなー ❤️  

  

 

社会貢献も忘れない 

 

できるだけボランティアにも積極的に参加しています。

 

2009年7月から2012年5月まで、現在住むノースカロライナ州トライアングルのフリーペーパーの編集長(兼アートディレクター&ライター)をやってました。 

 

ニューヨークなどの都会と違ってノースカロライナには日本の本屋さんがありません。 

 

現在も少ないノースカロライナ州の情報をグローバルに発信してノースカロライナのことをもっと知ってもらうためと、地元の人たちへの情報とコミュニティー活性化のために地元で知り合った仲良しグループと一緒にウェブサイトも運営しています。 

 

2009年ー2014年まで日本語補習校代教教員の登録をしていました。

 

実際に代教の先生として幼稚園児のクラスに入ったことがあります。子どもたちは未来の宝。本当に可愛いですね。 

 

子どもたちが通う地元の学校のクラブ活動やその他ローカルイベントなどでの写真撮影は、とても喜んでもらえるので、現在も頻繁に参加しています。  
 
最近は成長した子どもたちがボランティアに精を出すのを見守る役も加わりましたが、社会に貢献できることは私にとってもとても意味があることです。 

 

これからもそのような機会を大切に、人と人とのつながりやご縁に感謝して生きていきたいなと思っています。 

 

上山仁子 

2018年3月吉日 

Hitokoさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

SNSアカウント

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス