結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P1000

結城紬の流通

本場結城紬卸商協同組合の設立

結城紬は伝統的な生産方法をかたく守った高級衣料品であるため、

生産から販売まで特徴ある体系が維持されている。この中で卸商

は昔から特別重要な役割を果たしたが、この事情は戦後も一貫し

て続いている。太平洋戦争中の経済統制で1942年(昭和17)

買継商は廃業を強いられた。戦後結城紬の生産が開始された時も

買継商は公然と事業を再開することができず、1946年(昭和21)

機屋を中心に設立された本場結城紬織物協同組合に参加して営業

を再開した。1949年ようやく絹織物の統制が撤廃され、買継商

の活動が自由になった。1953年買継商は織物協同組合から独立

して本場結城紬卸商協同組合を設立した。従来の買継商から卸商

へと名称も変わり、事業も一段と活発化した。戦後買継商は24軒

を数えたが、卸商協同組合の設立時には19軒に減少した。1958年

卸商は16軒に減少し、1970年代には15軒となった。現在卸商は

結城市に13軒集中し、小山市と関城町に1軒ずつあるが、取引き

は結城市が中心となっている。卸商は約半数が戦後の開業となって

おり、江戸時代開業の卸商は2軒にすぎない(a)。

卸商の経営規模はまちまちであるが、1959年(昭和34)の調査

では半数が家族従事者だけで経営している。伝統産業にすさわしく

中小企業を中心とした卸商の経営である。店舗は20坪以下のもの

が多く、その構造も昔ながらの様式を保っている。毎朝機屋がこの

店頭を訪問し、店主や番頭を相手に持参した反物の売買交渉をする。

交渉がまとまれば機屋は代金を受け取って帰り、まとまらなければ

後日の交渉を期して反物を持ち帰る。反物を預けて帰る者もいる。

店頭での取引きは午前中に終わり、午後の取引きはない。戦後の機屋

は卸商から図案をもらっての注文生産が大部分となったから、交渉

がまとまらなくても他店へ移って交渉することはほとんどない。

高級品であるから機屋と卸商はお互いに専門家として交渉するし、

相互が長い取引関係を持っているので、ほとんど短時間の交渉でまと

まるといわれている。戦後は季節による価格変動も少なくなり、

年間を通じて安定した取引きとなっている。

 

(a)1980年以降卸商は結城市以外では小山市に一軒だけになっている

 

 

<結城紬の流通 おわり>