結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P976

結城紬生産の復活と発展

結城紬の復活(2)

しかし、結城紬は輸出品としてより国内需要に適していたため、生産が軌道に

乗り始めると、結城紬はより多く東京方面や関西方面へ販売された。すでに

5月頃まで約1000反の結城紬がこの地域に売り出されたが、これが統制違反

として問題になった。当時は厳しい統制経済下にあり、結城紬は贅沢品として

戦時中から生産を禁止されていたから、その売買がさっそく問題となったわけ

である。本来生産の許可されていない結城紬を政府自身が輸出品として生産

奨励して原料配給まで行ったうえ、これをヤミ取引きだといって警察当局や

税務署が騒ぎ出したために起こった問題であり、その処理で混乱するのはある

意味では当然であった。産地では待ちに待った生産再開だっただけに、降って

わいたような統制違反問題や50万円にもおよぶ罰金をめぐって深刻にゆれ動い

た(a)しかし、このような問題もしばらくしておさまった。1948年になると

茨城県では<平和茨城三か年計画>を発表して、郷土産業の振興を積極的に

推進するようになった。以前から結城紬は県内の代表的な特産品として広く

認められていたから、県でも特別に重視して結城紬の生産を奨励した。

1949年(昭和24)1月になると生産も軌道に乗り、県産約200反の生産に

達した。当時は四割にも達する織物消費税が賦課されていたから、これが購買者

にとって重い負担となって、販路の拡大ははかばかしく進まなかったが、関西

方面から徐々に需要が拡大し始めた。好機到来とばかりに地元では市場調査

と宣伝を兼ねた視察団を関西方面に送ったが、結城紬の生産再開は各地で歓迎

された。当面趣向をこらした高級品よりも、比較的 格安品の生産が求められた。

1950年(昭和25)頃になると生産はほぼ戦前に復活した。1950年代前半の

生産反数をみるとわかる。1951年の検査反数は2万348反を数え、これを基礎

に生産反数を推定すると2万3400反の生産に達した。当時結城紬は必ずしも

検査が義務づけられず、卸商組合の自主検査として行われていたから約15%

の未検査品売買が見込まれていたが、この頃になると生産量はほぼ戦前の水準

に達していたことを示している。紬は大部分結城町周辺の農家で生産されていた。

その生産状態を月別検査反数の推移でみてみると、いずれの年も2月から5月に

かけてと8月から10月にかけて受検反数が集中していた。戦後においても結城紬

はまだ農家の農閑期として大部分が生産され、強い季節性を持っていたことを

示している。これらの紬を織物種類別にみると、96%以上が縮織りであり、

明治中期まで主流を占めていた平織りは、当時ごく少量しか生産されていなかった

ことを示している。

 

(a)昭和22年6月20日付<茨城新聞>より

 

<結城紬の復活) おわり>