結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P959

宮崎地区の紬生産

宮崎地区は30戸の小地区であるが、23戸が紬を織っている。このうち創業時期の明らか

な19戸についてみると、江戸時代の創業は2戸にすぎず、明治期と大正期にそれぞれ4戸

が創業している。昭和期創業9戸のうち戦前に紬を織り始めたのは2戸で、戦後の創業が

7戸となっている。創業期の早いものほど紬生産の経営に占める比重が重くなっており、

生産する紬も高級品となっている。大正期以降創業したものの大部分は第一種兼業農家

であり、紬も中級品の生産が中心となっている。江戸時代創業の2戸は、雇人や見習人を

持ち、これを基礎に委託生産も兼ねている。結城紬は工場での大規模生産のむずかしい

地機を使用しているから、地区内でも小規模生産が主流をなしている。各生産者の機織り

従事者数をみると、経営規模の明らかな19戸のうち、10戸が一人で機を織り、6戸が2~3

人の機織りとなっている。さらに、4~5人で機を織るのが1戸、8~10人が1戸、11人以上

2戸となっている。これからの生産者で他人を雇っている機業者は6戸にすぎず、その内訳

は雇用者1~2人を持つものが3戸、3~5人が1戸、6~10人が2戸で、13戸が雇人なしで

ある。見習人を抱えているのは、5戸にすぎない。この見習人もきわめて小規模で1~2人

をかかえるものが3戸、3人以上が2戸である。この地区の紬織りも家族を中心とした機織り

である。家族の機織りのわかる20戸についてみると、機織り人なし2戸、1~2人が17戸、

3人以上が1戸となっている。1戸で10人以上の機織りを抱えているのは例外的な生産者

であり、大部分が家族を含めて5人以下の機織りである。機織りは各人が数週間から数ヶ月

を費やして一反の紬を織り上げるのが普通である。だから、生産反数も決して多くない。

生産反数のわかる19戸についてみると、1977年(昭和52)の年間生産量は10反未満が

12戸、10反以上20反未満が4戸、20反以上30反未満が1戸、30反以上40反未満が2戸と

なっている。この地区では米麦作の協業によって、ほとんどの女子が農業労働から解放されて、

織物に専念できるようになっても、各戸の生産は右のような状態であった。しかし、この

地区では女子が機織りに専念できるようになって、品質がいちじるしく向上した。紬生産者

が経営規模を拡大しようとする時とられたのが、見習人をとって織子(手)を養成し、これ

を自立させて生産を委託する方法であった。紬織りには複雑な準備工程が必要であり、これ

を習得しないかぎり自立した生産者となることは困難である。単に紬が織れる程度の技術では、

機屋の委託生産に甘んじなければならず、問屋と直接取引きするのはむずかしい。準備工程

としては絣くくりと下拵えがある。絣くくりは多くは各戸の男子がこれに従事している。

宮崎地区で絣くくりのわかる20戸についてみると、11戸は家族の手で絣をくくっている。

このほか、家族に雇人を加えて絣をくくる生産者が1戸、自家のくくりで間に合わず一部を

購入するもの1戸、絣くくりを外部へ委託又は購入が6戸、一部販売が1戸となっている。

下拵えは男女を問わないが、熟練を要する作業である。宮崎地区では大部分この過程を自宅

で行っている。委託を兼ねる生産者は9戸あり、41人に委託している。委託の条件は多種多様

であり、この地区でも一定していない。

 

<宮崎地区の紬生産 終わり>