結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P760

結城紬織物業の統制と廃止(2)

 

1939年7月6日には高級品の製造を禁止した奢侈品(しゃしひん)等製造販売

制限規則(a)が制定され、結城紬の生産に大きな打撃を与えた。

同業組合ではその様子を<原料商ハ勿論、染料業、撚糸業者等各業者共現在

取引ハ殆ト皆無ノ状態ナリ>と茨城県経済部長にあてて報告している。

1939年末には商工省の指令に基づき原材料の配給だけでなく、絹織物の規格

が統制され、結城紬も経糸、緯糸のデニール、密度、幅、長さ、量目が決められ

た。また生産原価も同業組合によって詳しく算出された。<ぜいたくは敵だ!>

というスローガンが流行したのもこの頃であった。1941年(昭和16)には

紬生産の統制がさらに強化され、織機の登録、織機の制限(b)、使用原料糸

の指定または制限、原料加工の制限、使用染料の制限が実施された。

加えて同年4月には県商工課の指令により、配給綿糸購入者は前回使用後の

廃品(c)を持参しなければ購入できないことになった。このような統制下でも

結城紬の生産は織物規格に沿って営々と続けられた。1941年の調査では、

年間50反以上を生産する製造業者は、結城町に15人、関本町では9人の名前

があがっていた。しかし、戦況の進展とともに、原材料の品不足は急速に進み

これに応じて製品規格の簡素化がはかられたが、規格品の生産すら困難な状況

になっていった。加えて真綿の配給が減少したため原料糸の値が高騰し、

釘付けにされた製品価格では採算が合わなかった。こうした状況下で、紬の

不良品も多く出回るようになり、紬生産は一路衰退の方向に進んでいった。

 

(a)1939年7月7日実施、いわゆる7,7禁令

(b)製品の品位維持と生産調整のため

(c)括りに使用した切れ端や残糸および絣の解き糸

 

<結城紬織物業の統制と廃止(2) 終わり>