結城市の歴史 近代結城のなりたち
引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市 編集:結城市史編さん委員会
P729
組織と組合員
昭和恐慌でいったん落ち込んだ各部組合員は、第ニ部の買継商=紬問屋を除いて徐々に
回復していった。この組合は零細な生産者が多数を占める第一部(製造業者)を除いて
一定の規制があったが、とりわけ紬問屋で構成する第二部はギルド的性格が強かった。
第一部の加盟費は10円にすぎなかったが、原綿商は保証金30円、加盟金200円であり、
買継商=紬問屋にいたっては保証金、加盟金が1930年(昭和5)に改定されてそれぞれ
500円になった。このような高額の加盟費を課すことによって、第一部以外の組合員の
増大、とりわけ紬問屋は同業者の増大を防ぎ、組合員の利益を維持したのである。
その背景には、農家副業という生産形態をとる手織りの紬生産は生産量が限られており、
生産者以外の紬関係者は組合員一人一人の取扱数量の減少をもたらし、既存組合の利益
の低下が避けられない、という事情があった。同業組合の各部組合員のうち、第一部
(製造業者)と第二部(買継商)については、すでに検討した。残る糸綿業者、染色業者
、撚糸業者の1940年(昭和15)における地域的な分布状況を示したのが表である。
この表からこれらの業者、とりわけ染色業者と撚糸業者は結城町と絹村に集中しているのが
わかる。製織だけでなく結城紬のあらゆる生産行程において、この2つの地域が結城紬の
中心をなしていたのである。染色業者は3~4人の職人を雇うのが普通で、それらの職人
はほとんどが渡り職人であった。また、撚糸業についてみると、1940年(昭和15)の
調査では組合全体で撚糸機63台、錘数1260本で撚糸機63台のうちバンド式立錘5台の
ほかはすべて八丁式という機械であった(a)。一軒で1~3台を所有し、4台以上を所有する
者はなかった。ところで、同業組合では各部ごとに部長が選出され、組合全体の代表者
として組合長が選出された。組合長は同業組合創立以来第二部の買継商=紬問屋の組合
員が就任しており、同業組合の実権が紬問屋にあったことを示している。
紬問屋は他の紬関係者を同業組合に組織することによって、生産の組織化と販路の
掌握を目指したといえよう。
(a)バンド式立錘五台、は現在、イタリー式に近い撚糸機ではないだろうか。
スピンドル(軸)をタテ方向に設置し、ベルトで回転させ、撚った糸を巻き取る。