結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P725

紬の販売と市場

産地の買継問屋に集められた紬は、主に京都、東京、名古屋の市場へ直接持ち込むか、また

は消費地の繊維問屋に買い取られ、そこからデパートなどに出荷された。最も有力な消費地

は、東京日本橋の秋場商店であり、関西では京都の市原商店が有力であった。紬の相場は

秋場で決めるといわれたほどで、同店は大阪に出張所を置いて関西の問屋にも卸していた。

また、同店は産地問屋を指導して、流行にあった図柄の紬を機屋に織らせた。産地問屋から

消費地の問屋などに図柄を持ち込む場合ももちろんあるが、その場合には、まず秋場商店

に持ち込み意見を聞いたといわれる。紬は産地問屋に送るだけではなく、品薄の時期には

消費地の問屋が産地問屋を一軒一軒回り、一反一反値を決めて買い込んだり、機屋にも足

を運んで買い入れる場合もあった。消費地の問屋だけでなく、松屋、白木屋、三越、高島屋

などの有力なデパートなどが直接買いに来ることもあり、また、機屋が荷をかついで消費地

におもむき、顧客に販売することもあったが、主要な販直接消費地におもむき、顧客に

販売することもあったが、主要な販売ルートは、機屋→買継問屋→消費地→デパート→消費者

であった。秋場商店では、仕入れ品の約6割を都内のデパートに委託販売した。紬の市場は、

昭和恐慌以前には関西、東京で折半していたが、昭和恐慌以降になると関西6割、東京4割、

となり1934年以降には関西6割、東京3割、その他1割となった(a)。1931年(昭和6)

10月には上越線全線開通記念として長岡市主催の博覧会に結城紬が出品され、好評を博し、

同地方への新販売が開かれた。また、 1933年には中国の大連博覧会(7,8月)に結城

紬が出品され、翌年4月には大連にある鈴木商店が京都の市原亀之助商店から結城紬30反

を購入しており、この頃から結城紬は<満州>に輸出され、朝鮮や<関東州>方面にも

輸出先が広がり、とくに新製品のネクタイの需要が増大していった(b)。

紬の需要は、1933年(昭和8)以降になると男物は洋服が普及して減退し、婦人物やネクタ

イなどが増大していった。また、一般に東京ではあっさりした柄が歓迎され、関西方面では

濃厚なものが喜ばれた。結城紬の販路をもう少し具体的に示すために、買継問屋である奥沢

の販売先を示した表がある。奥沢の場合には、東京の松屋、西村商店、長谷川商店、京都

の市原商店、大阪の森伍商店、名古屋の春日井商店などが主な販売先で、秋場商店との取引

は少ない。奥沢でも1930年代半ば以降(昭和10年代)になると、販売先が札幌や下関、

中国の奉天など、東京、京都、大阪、名古屋以外の地域に広がっていった。

 

(a)本場結城紬織物同業組合営業成績報告

(b)昭和8年6月24日、9月1日、11年1月16日付<いはらき新聞、(結城町発達史)>

 

<紬の販売と市場 終わり>