結城市の歴史 近代結城のなりたち
引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市 編集:結城市史編さん委員会
P714
結城紬織物業の変遷
(1)紬生産の変容
技術の改良と製品の高級化(1)
県立工業試験場を中心に大正末期から進められた紬の改良は、1929年(昭和4)11月の茨城県
で行われた陸軍特別大演習が一つのステップとなった。県では特産物の結城紬を巡幸の際に皇后
に献上するため工業試験場にそのデザインを命じた。それまで婦人物にふさわしい紬が、あまり
生産されていなかったからである。これが契機となって、銘仙や御召などに用いられていた新柄
の図案が取り入れられ、この年以降婦人物がふえていった。昭和恐慌下には紬問屋と製造家は、
不況打開策として、とくに婦人物に力を入れた。この結果、1930年の秋以降にはしばしば<い
はらき>新聞にも報じられたように、女物の紬御召が増大していった。婦人物の増大にともない
染色技術にも改良が加えられいった。染色については、すでに1928年(昭和3)に結城織物同業
組合第四部(染色業)が講習会を開き、栃木県工業試験場の技術員による絣染めや雑色染の実習
(三日間)、鹿児島県から招いた職工による琉球山藍の染色の実習(一週間)など他地域の染色
技術の導入に努力していた(a)こうした努力に加えて、婦人物の
増大にともない、とくに力を入れたのが色彩の多色化であった。それまでの藍一色から脱皮し、
茶色をあしらうなどの工夫が加えられ、化学染料も導入され、色彩の多色化が進められた。この
面で画期的な意味を持ったのはヴァリオグラフ(模様構成機)の導入であった。1933年(昭和8)
春、工業試験場ではヴァリオグラフを購入し、織糸に薬物染料をすり込んで織りだす(摺り込み)
絣の製作に成功した。従来絣物は黒茶、紺、藍などの地色に白または茶で染め出した単色絣であった。
<摺り込み>絣の成功は、色彩の多種多様化を一挙に推し進め、当時<本場結城紬絣物の一大革命>
と称された(b)。このように工業試験場では、不況克服の重要な
一環として、結城紬の図案と染色の改良を指導し、その高級化をはかっていったのである。
(a)昭和3年度<営業成績報告書>
(b)いはらき新聞、昭和8年4月9日付
<技術の改良と製品の高級化(2)につづく>