結城市の歴史 近代結城のなりたち
引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市 編集:結城市史編さん委員会
P519
結城農学校
結城染織学校
結城町の伝統的産業である木綿と紬の需要が増大して生産は進展したが、反面では製品の粗製濫造
が目立ってきた。かつて十数年前にも粗製濫造が問題となったことがあった。二度とそういう事を
引き起こさないためにも町立の染織学校を設置し<職工徒弟ヲ養成シテ一方ニハ粗製濫造ヲ防ギ
一方ニハ改良精製ヲ奨励スルト同時ニ輸出向ノ新事業ヲ計画スル>ことが必要であった。
以上は1897年5月、染織学校設置の予算審議の臨時町会における町長長沢一喜の提案理由説明の
内容であった。1898年12月樺山文部大臣一行を招いてにぎにぎしく開校式を挙行して、蚕業学校
内に併設した染織学校は本科二年、別科五か月以内の教育課程を編成した。定員は本科一学年35名
(男子のみ)、別科は男女各15名ずつ計30名であった。このほかに修業年限一か年の専科も設けられ
染織学校の卒業生でさらに研究を希望するものを修学させることにした。教科は修身、読書、作文、
習字、算術、幾何、物理、化学分析、図面、染色法および配色法、機織り法および意匠、実習、体操
(普通体操と兵式体操)であった。染織学校は職業学校の色彩が濃く、普通機25台、綾織り用機3台、
バッタン5台をはじめとして、これらの付属器具、座繰機、かせ掛、くだ金などの備品類も多数にのぼった。
染織学校の初年度予算は収入2641円余が予定された。その内訳は生徒の授業料収入として本科生一人
当り一ヶ月30銭、生徒40人で十一ヶ月132円、別科生一人月20銭、生徒30人の五ヶ月分で30円、
合計162円。生徒の製品販売代金32円、そのほかに雑収入12円が予定された。主たる収入は町費1445円
と国庫補助金1000円であった。国庫補助金は1897年一月に年間1000円ずつ、五ヶ月間支給されることが
決定した。支出は5人の教職費に対する年間給料が1284円、備品、染色、実習費、消耗品費など600円、
その他雑給などを含めて2641円の支出額が予定された。なお、学校創設に当たっては学校建設費として
敷地五反九畝余歩の購入代金、および平屋三棟の校舎建築費として1800円の経費が計上されたが、
これは地元有志の寄付金によってまかなわれることになっている。このような経過をたどって設立された
染織学校は予想外に生徒の集まりが悪く、町当局の努力にもかかわらず、入学生はいっこうに増加しなかった。
開校当初から学校経営の不振が町政上深刻な問題となり、改善に目途がたたかったから学校経営は苦境に
追い込まれ、1901年9月にはついに廃校のやむなきにいたった。
<結城染織学校 終わり>