結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P464

本場結城織物同業組合の設立(1)

県の意向では、工業試験場(石下)を廃止しても同業組合による製品検査の励行、および

販売の拡張をはかることで、織物業の振興が可能であるとしていた。しかも<結城物産織物

商組合等ガ既ニ時勢後(おく)レル感アルハ明瞭ナル事実>だから、振興の方法として新たに

織物同業組合を組織させ、組合の地域を結城郡全体、あるいは真壁郡の一部をも加えた広い

地域とし、この地域内の織物業関係者を組合員とする。そして結城紬などは<織物特別品>

として別扱いにし、新式の織機を応用した織物をも奨励するにあった。だが、1910年(明治

43)7月6日に、結城の同業組合創立委員の多数は、工業試験場長竹下直次郎が提案した

結城と石下の両組合の合同を拒否した。その理由は、両組合の産出織物の<組織及ビ製造

方法全然其趣キヲ異ニシ、取締上困難ナルト、本組合生産品ノ発展上不利益ナルト認メ>

たからである。そこで、同年8月13日に奥沢庄平ほか14名は、重要物産同業組合法に基づく

組合設置を申請した。10月6日に県知事の許可があったというが、農商務省の許可には至ら

なかった。おそらく結城町の申請と、県の意向および石下、下館地方の織物業者の希望との

あいだに、調整を要することがあったため、国の許可が得られなかったのであろう。

そこで結城町の織物業者は1912年(明治45)2月29日に奥沢庄平ほか15人の名で本場結城

織物同業組合の設置を再び申請した。同年3月14日、この申請は農商務大臣によって許可され

同日この組合は設置された。これに先立って、石下町では1911年5月16日に結城郡織物同業

組合が設立され、下館町でも翌年4月7日に下館足袋底木綿同業組合が設立されている。

織物の製品と製造方法が異なる三地区別々に同業組合ができたことになる。

<本場結城織物同業組合の設立(1) 終わり>