結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

 

広江家の養蚕業と蚕種製造

広江家の自作地が大部分桑園であったことはすでに述べたとおりである。1888年の桑園面積は5町歩

3反に達したが、このうち3反以上はこの年新たに植え付けたものであり、前年にも相当部分の植え付け

をしているから、当時は年々桑園を造成していた時期である。1890年広江家の<蚕事要録>によるとこ

の年の桑園中耕はもっぱら近隣農民の賃耕に依存している。1892年(明治25)一月、山川村山王の

北嶋豊作宛に出した広江家の明細書のよれば、前年暮に桑園4町3反余の中耕を依頼し、その耕作賃と

して23円24銭支払った。中耕作業としてはウナイ、シバリ、中打などの作業を依頼し、各作業について

反当り 29銭、10銭、15銭ずつ支払っている。北嶋に対してはその他の農作業も依頼し、合計25円

84銭の支払いをしているが、4月にはまた桑園の手入れを頼み13円8厘支払っている。広江家では北嶋

のほか大島庄直にも6反の中耕を頼んでいるが、1890年の桑園管理もほぼ同じような方法で行った。

桑葉は一部販売しているが大部分を自家の養蚕に使用している。1901年(明治34)<桑葉収納簿>

によると広江家ではこの年5月22年から6月4日までに16人を桑葉摘み245駄余摘んでいる。広江家の

桑葉販売分は買取人が摘むことにしていたら、これらの桑葉はすべて自宅で消費していたと考えられる。

賃銀は摘葉量を基準に支払われたが、一駄につき5銭から8銭の摘み賃が支払われた。当時広江家では春蚕

の飼育だけ行っており、6月12日から15日にかけて16人(延42人)を雇って251貫余の繭をかきとっている。

戦前の養蚕家は100貫取りを目標に経営を拡大していたが、100貫取りはなかなかできなかった。1901年茨城

県の春蚕一戸平均収繭量が13.5貫にすぎなかったことから考えても、広江家の養蚕がこの地方で群をぬいた

存在であったことがわかる。広江家ではこのような大規模養蚕のため1890年(明治23)巨大な蚕室を建設

したが、この蚕室新築は県下の蚕業改善に大きく貢献するものとして県知事から表彰されている。

広江家では原種用蚕種は自宅で使用し、これからできた製糸用蚕種を販売したと考えられる。製糸用蚕種は1890年

400枚91年600枚となっている。おそらく1890年の蚕室建設によって養蚕、製種業が本格的に行われるように

なったと考えられる。蚕種製造は1899年1月結城蚕種製造合資会社設立によって軌道に乗る。1901年の蚕種受注量

は1093.5枚に達し、6月20日から8月2日の間に注文を受けている。この年製造会社の蚕種販売代金1024円

21銭7厘、同未収金937円41銭7厘、蚕種現在高35円となり、381円44銭3厘の営業益金を得ている。しかし、

当時広江家の蚕種製造は必ずしも安定した収益をあげえず、時に大きな利益を得ながら、また損失もこうむった。

しかし、広江嘉平は日頃から<繭の出穀で手間賃は間に合うのだから、平均して損はない>と家族にいいきかせ蚕種

製造をずっと続けさせたと伝えられる。

 

<広江家の養蚕業と蚕種製造  終わり>