藤原道長の欲望は、年齢や立場の変化とともに、天皇のための政をしたいというものから、自分の孫を天皇したいという欲望へと変化していく。


藤原道長の欲望が、どのように変化していったのかを詳しく見ていこう。


藤原道長は青年時代、藤原兼家の四男坊に生まれ、華やかな兄たちの影に隠れて、まさに脇役の道を歩んでいた。


ところが父兼家に続いて道隆と道兼という兄二人が相次いで逝去したため、道長に権力の座が巡ってくる。


姉の東三条院詮子が強力な後ろ楯となってくれたこともあり、道長はわずかの間に最高権力者となった。


ここまでは道長が単に幸運だったという話であるが、ここから打った手筈は、やはり彼が常人ではなかったことを証明している。


道長が書いた「御堂関白記」を読めば、そんな道長の変貌ぶりが手に取るようにわかるのである。


道長は中関白家が失墜すると、娘の彰子を一条天皇の後宮へ入れている。


そして一条天皇が寵愛した定子が敦康親王を生んだにも関わらず、彰子を中宮へと押し上げている。


この時は、東三条院詮子と蔵人頭の藤原行成が毎晩のように交互に一条天皇を説得して、ついに説き伏せたと言われている。


また道長は、東宮の居貞親王ともこのころには活発な付き合いをして良好な関係を続けている。


道長には困った時には、援助の手をさしのべてくれる協力者がたくさんいたのである。


彰子を一条天皇の中宮に出来た道長であったが、そんな彰子に一条天皇は見向きもしなかった。


心労がたたった道長は、この頃ついに重い病を患い、また道長邸から呪詛に関連した物が掘り出されたのも、この時期である。


都では伊周が道長たちを、呪詛しているという噂が絶えなかった。


しかしこの時も、道長は病を患いながらも常人には思い付かないような手を打っている。


道長は伊周の復帰を、行成を通じて一条天皇に願いでているのである。


この時に道長は、一条天皇がどのような表情を示すのかを試しているのである。


この道長の申し出に一条天皇も驚いて、道長が病回復に専念するよう伝えている。


行成から一条天皇が伊周の復帰に乗り気だった様子を聞いて、道長は怒りと失望の表情を浮かべたという。


一条天皇は道長を呪い殺そうとしている伊周の復帰を、本心では望んでいたのである。


そしてこの時道長は、はっきりと一条天皇に裏切られたことを自覚している。


これだけ一条天皇のために政治に命をけずり、重い病になっている自分を呪詛する伊周の復帰を天皇は願っているのである。


道長は自分の思いが一条天皇に通じない現実に、日記には世の無常を憂い呪いを書き綴っている。



賢帝といわれた一条天皇だが、定子への偏愛が彼の判断を狂わせたのかも知れない。


以後道長の一条天皇や伊周、そして定子への態度は極端に冷たくなっている。


そして天皇にする皇子は、やはり自分の孫でなければだめだということも痛感したようである。


道長は一条天皇にこの頃、何度も役職の辞任を申し出ているが、以上のような心理的変化があったからである。


道長は定子の崩御に際しても冷淡であった。


想像の域をでないが、この頃から道長は天皇を、次の後継者を残す単なる「種馬」のように考えるようになったと思われる。


彰子のサロンには紫式部や和泉式部という魅力的な女性たちをこれでもか、というほど揃え始める。


さらに一条天皇を花見や競馬に連れ出して、彰子と接する機会をもうけている。


その結果、一条天皇を引き付けることに成功した彰子は、敦成親王に続いて敦良親王をもうけている。


道長は私情を挟まず、天皇を後継者を残すための「種馬」と考え対処したのである。


以後道長は一条天皇に続いて三条天皇、後一条天皇と自分の都合で何代もの天皇を次から次へと取り変えていく。


そして後朱雀天皇や後冷泉天皇など皆自分の孫を天皇へする道を開くのである。


天皇のためだけに純粋に仕えていた道長が、一条天皇に裏切られたことにより道長の欲望は変化する。


道長は一条天皇の寿命があまりないと知ると、すぐに居貞親王が次の天皇になる準備を進めている。


もはや道長にとっての最大の関心事は、一条天皇ではなく、次にだれが天皇になるかであった。


そして道長をそのようにさせた一因は、一条天皇にもあったのである。


藤原道長の欲望を変えた一瞬と言えば、一条天皇が道長を裏切った時と言えそうである。


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