清少納言は皇后定子が亡くなると、中宮彰子などの誘いを断って、静かに宮中を去った。


それからの清少納言を、詳しく見ていこう。


西暦1000年長保2年春、一条天皇の第三子を宿した皇后定子は再び三条宮と呼ばれた平生昌邸へ出産のために移っている。


この時定子に付き従ったのは、清少納言をはじめ、わずかの女房たちであった。


多くの付き人たちは、中関白家が凋落すると、定子のもとを去っていた。


つわりがひどい定子は食欲がなく、この頃から徐々に体が衰弱していく。


それを見かねた清少納言は、麦の粉を練って固めた「青ざし」というお菓子を定子に差し出した。


すると定子は菓子の下に敷かれた緑色の紙に、そっと歌をしたためて清少納言に返している。


皆人の花や蝶やといそぐ日も


わが心をば君ぞ知りける


権力者にすりより、権勢になびく多くの人々の中で、よくぞ私に仕えたくれた姿を、きっと君(天皇)もご存じでしょう、という意味である。


定子に仕える清少納言ら女房たちは、この歌に接し、過分の仰せに皆涙している。


この年の12月15日、定子は一条天皇の第三子の媄子内親王を出産するが、その後産がないまま、翌日に逝去する。


そして遺言によって亡骸は鳥辺野に土葬されたが、葬送は雪の降りしきる夜に行われた。


暗く寂しい寒い夜道を、清少納言は一体何を考えながら通ったのだろうか。


清少納言は以前から「枕草子」を執筆し書きためていたが、定子の没年から数年間で書き上げたと思われる。


そしてそれはやさしく聡明な定子への鎮魂歌であった。


清少納言は中宮彰子らの慰留を断って、静かに宮中を去ったと言われている。


彼女は結婚した年は不明だが、再婚相手の受領・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われる。


そして棟世は清少納言より、20歳以上年長であったと考えられている。


歴史学者の角田文衛氏は、「清少納言集」の異本にある内裏の使いとして蔵人源忠隆が摂津に来たという記録が重要だと指摘している。


そして角田氏はこの使者は、清少納言に定子の遺児の媄子内親王、脩子内親王の養育を要請したものと推定しているのである。


そのため清少納言は再度出仕し、紫式部らと接触があったとする説を角田氏は唱えている。


その後、清少納言の消息は途絶えるが、1017年寛仁元年3月に兄・清原致信が源頼親によって殺害されるという事件に突然彼女は登場する。


清少納言は藤原棟世とは死別して摂津から帰京すると出家して、兄の清原致信と同居していた。


ところがこの兄の致信は、受領と有力豪族の抗争に巻き込まれて、清少納言の目の前で殺害されている。


清少納言も危うく殺されそうになったが、女性であったために命だけは救われている。


源頼親が清少納言の実兄の殺害を企図したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。


そして頼親が配下の武士たちに命じて清原致信を討たせたのは、それ以前に致信が当麻為頼を殺していたためだったのである。


さらに致信に為頼殺害を指示したのが、和泉式部の夫の藤原保昌だったという、物騒な事件である。


この事件の経緯については、藤原道長の「御堂関白記」にも記されいるため、非常に信ぴょう性が高い。


以上のような悲惨な事件に清少納言は巻き込まれたために、のちに尾ひれがついて様々な彼女の落魄伝説が生まれたと思われる。


全国各地に清少納言の伝説が残されているのは、それだけ彼女が有名でその生き方が当時の人々には鮮烈であったことの証拠である。


父の清原元輔が桂に、夫の藤原棟世が「月の輪」と呼ばれた地にそれぞれ山荘を所有していた。


そのため、それからの実際の清少納言は、「桂」や「月の輪」などに移り住んで、「枕草子」を校正しながら余生を過ごしたと言われている。


清少納言が定子を生涯敬慕したことを考えれば、定子が埋葬された鳥辺野に近い「月の輪」に六十すぎで没するまで住んだと思われる。


「月の輪」については、京都市東山区の泉涌寺付近とする説の他にも、洛東の月林寺説などがある。


彼女が宮中で過ごしたのは、八年あまりと、生きた年月に比べれば短い時間であった。


しかし清少納言にとっては、定子に仕えたその期間が、充実したほぼ人生のすべてのようであった。


「枕草子」には定子の美しさ、めでたさのみ記され、晩年の不幸については触れられていない。


彼女にとっては、定子に仕えた八年あまりが人生の中で特別に輝いていた。


そして彼女は定子とやりとりを思い出すだけで、現実の不幸を忘れられたのである。


彼女は定子という素晴らしい人間がいたことを、後世に伝えることが自分の使命だと感じた。


「枕草子」を書き終えた彼女は、大きな仕事をやり終えた満足感に溢れていたに違いない。


そして清少納言は、定子の墓守りを努めながら、穏やかで幸福な生涯を終えたのではないだろうか。