しかし実は、道長は独裁者とはほど遠い敵対する人物の意見にも耳を傾ける非常に調整型で日本的なリーダーであった。
そのため苦労する道長の姿を見かねた紫式部が、彼のために文学的才能を発揮して協力するのである。
二人の生涯を詳細に調べれば、常に接点を持ちながら、互いを助け高め合って成長していたことがわかる。
紫式部と道長がどのように関わり影響しあったのかを、詳しく見ていこう。
紫式部は道長よりも7歳ほど年下だが、二人は住まいも近くまたいとこだったと言われている。
そのため子供の頃から何らかの交流があり、二人は顔見知りであったと思われる。
一説では紫式部は十代半ばで紀貫之の子息・紀時文と結婚したが、死別したと言われている。
996年長徳2年夏、紫式部は24歳のころに国司となった父・藤原為時に随行して越前へと旅立つことになる。
一方30歳となった道長は、道隆と道兼という二人の兄が逝去し、さらにライバル藤原伊周が自滅するような形で流罪となったために左大臣に就任する。
そのため為時が越前守となったのは、道長の意向であったようである。
当時の日本は交易は九州の大宰府のみに限定していたが、越前の松原客館には交易を求める宋の商人が収容されていた。
そのため宋人と意志疎通が可能で、漢文の得意な為時を道長は越前守に抜擢している。
紫式部は為時の秘書として、宋人の対応などに活躍する。
越前に赴任して一年後に紫式部は、藤原宣孝と結婚するために、一人で帰京した。
そして紫式部は26歳で20歳以上年上の宣孝と結婚して、翌年には長女・賢子を生んでいる。
しかし結婚してわずか三年ほどで、宣孝が疫病のために死去する。
紫式部は宣孝の死をきっかけに、世の無常を感じ、「源氏物語」を起筆したといわれている。
彼女が書きためた「源氏物語」が友人たちの間で話題となり、その噂は宮中にまで広がった。
そして越前への赴任は、紫式部に「源氏物語」を書くにあたって国際的な視野や感覚を養う上で非常に役立っている。
その頃道長は、中宮に定子がいるにも関わらず、娘の彰子を中宮にして一人の天皇に二人の皇后という「一帝二后」に無理やりしたと言われてきた。
ところが道長が書いた「御堂関白記」を丹念に調べて見ると、「一帝二后」になったのには別の経緯があったことが判明する。
「御堂関白記」は世界最古の自筆の日記であるが、文字にはそのひととなりが現れる。
筆跡や書き間違いなどから、筆者の性格やその時の精神状態まで伺い知ることが出来る。
道長は筆跡などから、大変におおらかで、小さなことにこだわらない性格だったようである。
さらに一条天皇の蔵人頭として仕えていた藤原行成も、同時期に「権記」という日記を残している。
それに道長のライバル・藤原実資が書いた「小右記」を合わせれば、当時の様子があらかた判明する。
この「御堂関白記」「権記」「小右記」という三つの日記を読めば、今までの道長とは違う人物像が浮かび上がってくる。
道長は回りの意見をよく聞く、柔軟性のある人物だったのである。
それらの日記によれば、彰子が中宮になることを当初一条天皇は賛成していたことがわかる。
中宮定子は、一条の皇女と皇子を生んでいたが、実家の中関白家が没落したため、子供たちの養育には天皇も不安を感じていた。
当時は天皇の子供といえども、妃の実家が経済的負担を強いられた。
そこで一条天皇は、彰子が中宮となることを一旦は賛成した。
そのため道長と姉の東三条院詮子は喜んだが、途中で「一帝二后」に前列がないことから一条天皇が躊躇する。
「一帝二后」は道長が独断で押しきった決定事項ではなかったのである。
結局行成が過去の先例などを調べて説得したため、一条天皇も納得した。
道長は最高権力者であったことは間違いないが、決して独裁者ではなかった。
どちらかと言えば、道長は回りの意見を聞きながら、丁寧に政をすすめて行く調整タイプのリーダーだったのである。
そのため、困っている道長の姿を見て、姉の東三条院や蔵人頭の行成がほっておけなくなったようである。
現代の日本の政治で、根回しや、各政党間の調整が盛んに行われる原型のようなものが、道長の政治姿勢にあったのかも知れない。
それはともかく、中宮となった彰子に、教養ある女房を探していた道長は、「源氏物語」を書いた紫式部に注目する。
紫式部は1006年寛弘3年頃に、宮中に上がり彰子のもとに出仕したとされている。
この頃には定子が亡くなっていたが、一条天皇は定子のことが忘れられず、まだ彰子のもとにはあまり通っていなかったようである。
紫式部は34歳の頃、彰子のために頭を下げた道長の謙虚な姿を見て、一肌脱ごうと覚悟を決めた。
紫式部は二十歳前となった彰子に、魅力的な女性となるための教養を伝授する。
その一方で、文学好きな一条天皇が好む「源氏物語」を少しづつ書いて、彰子の部屋に置いたのである。
この作戦は見事に成功して、「源氏物語」を読みたい一心で彰子のもとに通っていた天皇は、やがて彰子にも興味を示すようになる。
その証拠に、紫式部が出仕してわずか二年後に、中宮彰子は敦成親王を、さらに翌年には敦良親王を出産する。
まさに道長の絶体絶命の窮地を救ったのが、紫式部だったのである。
そのため道長にとっての紫式部は、形は妾のようであったかも知れないが、自分を救ってくれた特別な存在だったにちがいない。
道長は、その後も紫式部への支援を続け、「源氏物語」の写本作りにも協力して、その普及に努めている。
その意味で、「源氏物語」は道長の支援があればこそ生まれたとも言える。
紫式部は「源氏物語」のなかで、男性中心の社会構造や、身分制度を批判したとされている。
道長は「源氏物語」に暗示される彼女のメッセージを受け入れたのか、その後も最高権力者にしては謙虚な態度で政を行っている。
藤原道長が、30数年に渡って最高権力者の座にとどまることが出来たのは、独裁者ではなかったからである。
日本では平安時代から、独断的な政治を行えば長くは続かなかった。
そして道長の側に仕え、謙虚さを忘れないよう常に間接的に諭したのが紫式部であった。
世界最高峰の物語「源氏物語」の作者・紫式部と、日本史上の最高権力者・藤原道長が同時代に出現したのは偶然ではなかったのである。
【紫式部と、藤原道長③】ユーチューブ動画