一条天皇と定子のその後を、詳しく見ていこう。
藤原定子は976年貞元元年、道隆を父、高階貴子を母として生誕した。
一方の一条天皇は円融天皇と藤原詮子の第一皇子として980年天元3年に生まれている。
定子の祖父の兼家が摂政太政大臣になったとき、その嫡子道隆と定子ら一家の栄華は約束された。
定子は14歳になった990年正暦元年の正月、11歳で元服した一条天皇の添臥として入内し、2月には女御となっている。
添臥とは、東宮、皇子などの元服の夜、添寝する女性のことである。
通常は添臥の女性が、そのまま中宮になることが多かったという。
一条天皇が即位すると、藤原兼家は摂政となり、やがて嫡男の道隆ものちに摂政となっている。
15歳になった定子は中宮にはいり、定子の兄で、18歳の伊周が参議に任命された。
また道隆の弟道兼は内大臣、道長は権大納言に任命されている。
一条天皇の母・詮子は皇太后となり、東三条院という尊称を与えられ、上皇待遇をうけている。
臣下の婦人でこの尊称をうけたのは彼女が日本で最初で、女院の始めといわれる。
一条天皇の在位は25年に渡るが、その間兼家の藤原九条流は最盛期を迎える。
この年の5月に病臥した兼家のあとをうけて道隆は、一時関白、ついで摂政となっている。
これは後年、 中関白家といわれたこの道隆一家の、短いわが世の春のはじまりであった。
父道隆のすぐれた容姿と気品ある心ばえ、そして明朗さ、母高階貴子の当時でも評判の秀でた学才を定子は引き継いだ。
さらに美貌を兼ね備えた定子は、漢詩・和歌・琵琶を得意とする女性に成長し、一条天皇の愛を一身にうけた。
この中関白家の文芸を好むはなやいだ雰囲気は、定子の後宮に歌心ある赤染衛門など優秀な女房たちを多く集めた。
なかでも993年正暦4年ごろに出仕した清少納言は、定子の聰明な才に支えられて彼女特有の当意即妙の才をいかんなく発揮している。
この文学的・知的な環境は、公卿・殿上人の参加とともに、風雅と趣向に彩られた華麗な宮廷サロンを形成した。
そしてこの華やいだサロンの様子は、清少納言の「枕草子」に、もれることなく綴られている。
宮中では国風文化が花開き、藤原氏による摂関政治はピークを迎えた。
その一方で一条天皇をはじめ宮廷では、叙位と任官 だけおこなうことになった。
そして政治はすべて藤原氏の政所でおこなわれ、そこの下文や御教書が、天皇の宣旨に代っ て、権威をもつようになる。
藤原氏の政所は元来荘園の事務をとる役所であったが、今では太政官同様の権限をもち、摂関家は事実上の天皇家となったのである。
しかし藤原氏の独占と傲慢さは、貴族と庶民に関わらず人々に精神的な腐敗と退廃をもたらした。
そのため朝廷では、神仏・陰陽道の儀式と宴会、詩歌の集まり、バクチ、競馬、相撲、社寺まいり、名勝見物という遊びばかりがおこなわれた。
さらに酒好きの道隆は、一年間にしばしば大酒をのむ会も宮廷の正式な儀式として催した。
またすべての行事の後には、歌舞、音楽や酒宴がつづき、多くの禄が出席者に分配された。
そしてこれらの儀式も宴会も非常に形式主義であって、小野宮流の藤原実資は「公務は滑稽なしばいのようだ」と「小右記」で批判している。
宮中の催しは一年に三百種にのぼり、夜から朝までおこなわれ、宮中は不夜城であった。
一方地方では悪徳受領たちの過酷な税の取り立てで、庶民たちの疲弊はピークに達していた。
そのため当然、このような状況が長く続くはずもなく、関白道隆が病に倒れることによってその終焉を迎える。
道隆は、多量の飲酒によって持病の糖尿病を悪化させて重病となった。
そのため道隆は関白の座を嫡男の伊周に引き継ぐことを望んだが、一条天皇と東三条院詮子は、腐敗した中関白家が引き継ぐことを許さなかった。
また東三条院は伊周が関白になると、貴子の実家・高階家が台頭してくることを恐れた。
藤原道隆は995年長徳元年、伊周を後継者にすることが出来ないままに逝去する。
東三条院は一条天皇の即位に貢献した道兼を関白にするが、道兼は疫病のためすぐに没してしまう。
そのため道長と伊周が後継者争いを繰り広げるが、東三条院に押された道長が最終的には勝利する。
さらに伊周と弟の隆家は、東三条院を呪詛したり、花山法皇に誤って矢を射るという不敬を行う。
そのため一条天皇は伊周たちを流罪にしようとしたが、定子が兄と弟をかばって自らの邸宅に匿った。
伊周と隆家の兄弟は病気といって都にとどまり、中宮の所にかくれているのを発見され、ついに九州へ送られた。
このため中関白家は没落し、定子は後ろ楯を失ってしまう。
このことにショックを受けた定子は、一条天皇の子を身籠ったまま出家してしまう。
定子はやがて皇女を出産したため、伊周たちは都に戻されている。
そして一条天皇は愛する定子を、僧籍でありながら参内させている。
宮中に復帰した定子はまた懐妊したため、道長はまだ12歳の娘・彰子をあわてて入内させている。
定子は皇女に続いて次には一条天皇の第一皇子である敦康親王を出産している。
道長の要望により定子は皇后となり、彰子が中宮となる 「二后並立」が成立する。
そんななか、再び懐妊していた定子は1001年長保3年に次女の内親王を出産するが、その翌日に容体が悪化して亡くなった。25歳であった。
一条天皇は道長を恨んだといわれるが、在位中に感情を表に出すことはなかったという。
しかし一条天皇の崩御後に、道長は天皇の手箱から次のような内容の漢詩を書いた紙を発見する。
蘭が茂ろうとしても
強風が枝を折ってしげらない。
それと同じく、天皇の権威は、
悪臣がいては、行き渡らない。
道長はそっとその紙を破り捨てたという。
道長は晩年の数年間は病と怨霊に苦しめられたが、定子と一条天皇の生前の姿が脳裏をよぎったのかも知れない。