戦国武将の中でも、井伊直政の美貌、美しさは傑出していたようである。


15歳になった直政は、鷹狩に向かう徳川家康を道端で待った。


直政は由緒ある井伊家の再興のために、当時台頭してきた家康に仕えようと考えたのである。


男色にはあまり興味のなかった家康さえも、直政のあまりの美しさに思わず立ち止まって声をかけたという。


直政の元服は22歳のころだったと言われることから、やはり家康に唯一愛された男性が井伊直政だったのかかも知れない。


小早川秀秋は関ヶ原の合戦の前に、西軍を裏切って家康と密約を交わしたという噂が広まった。


そのため大谷吉継は秀秋に面会して起請文を書かせ、西軍を裏切らないことを誓わせた。


ところが秀秋は合戦が始まるとすぐに裏切って吉継の側面を攻撃、そのため西軍は総崩れとなり東軍が勝利した。


戦後に秀秋は家康から、関ヶ原での功績によって備前・美作51万石に加増されている。


だが小早川秀秋はやがて酒に溺れ、二年後に22歳の若さで急死する。


そのために秀秋は大谷吉継の亡霊に取りつかれて狂い死にした、と世間では噂された。


石田三成は関ヶ原の戦いで敗れると、再起を図ろうと大坂城を目指した。

しかし井ノ口でとらえられた三成は、小早川秀秋の姿をみつけると「二股膏薬とはお前のことだ」とののしった。


小心者の秀秋は、恐れ入って口もきけなかったという。


家康の好意で礼服を与えられた三成は「これは誰からの品か」と兵士に問うた。


兵士は「上様からです」と答えた。

三成が「上様とは誰のことか」と再び聞き返したので、兵士は「内府(家康)様です」と答えた。


すると三成は「徳川殿ではない。上様とは秀頼様よりほかにはないはずだ」と返した。


石田三成は秀吉の恩を忘れず、最後まで忠義を貫き秀頼を守り通そうとしたのである。


徳川秀忠は大坂冬の陣で、関東から兵を進めたが、家康が先に京へ着陣してしまった。


家康はまだ秀忠が到着していないことを知ると、急に不機嫌となった。

この事を道中で使い番から聞き知った秀忠は、あわててわずかの供回りだけで都に急いだ。


関ヶ原の合戦で遅参したトラウマが、秀忠をせき立てたのである。


息せき切って駆けつけた秀忠を見た家康は、いっそう不機嫌となった。


そして家康は「天下の将軍とも思われぬ不心得」と叱責した。


続けて家康は秀忠に「多少遅れたとしても、兵士を無駄に疲れさせぬために、悠々と軍を進めるのが将軍というものだ」と教えたという。


家康は実戦を通じて、徐々に秀忠に将軍学を教授していったのである。


真田信繁は九度山から大坂城に招聘された際、監視していた村人に酒宴で酔わせ、寝ている間に脱出したと言われてきた。


しかし長年世話になった村人に、脱出すれば迷惑がかかることを信繁は悩んでいたという。


そのため真田信繁はまだ暗い夜明け前、誰にも気付かれずに九度山を離れた、と言うのが真実のようである。


豊臣秀頼の父親については、現在でも様々な説が唱えられている。


秀吉は140cmほどの小男だったのに対して、秀頼は180cmを越える当時では長身の凛々しい青年である。


しかも「猿」や「禿げネズミ」とあだ名された秀吉、には似つかぬ秀頼はイケメンだったと言われている。


父親候補としては歌舞伎役者の名古屋山三郎や石田三成、あるいは側近の大野治長の名前があがっているが、真実は茶々のみが知るである。


茶々は実の父親・浅井長政を叔父の織田信長に小谷城を攻められて殺されている。


さらに実の母親・お市の方を豊臣秀吉に北ノ庄城を攻められて殺された。


そして茶々は、豊臣秀頼とともに最後は自らも徳川家康に大坂城を攻められ自害する。


戦国時代においても三度も炎に包まれ、最期には戦火に散った女性は茶々だけであろう。


徳川家康は倹約家、いわゆるケチで有名だが、それにまつわるエピソードが数多く残されている。


家康は着物はほとんど新調せず、ぼろぼろになるまで着ていた。


とすれば、家康がきれいな着物を着ているドラマは、嘘ということになる。


また家康は洗濯の回数を減らすため、汚れが目立たない「浅黄色」のふんどしを好んで着けていた。


女中の食費が嵩むのが気になり、お代わりをさせないように漬物の味をものすごく塩辛くした。


手洗いのための懐紙が風で飛ばされた際、新しい懐紙を出さず、飛ばされた懐紙を取りに行き家臣に笑われる。


するとこれに対し徳川家康は、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言ったという。


最後にイメージの崩れるエピソードを紹介したとすれば、お詫び申し上げる。


一年間の御視聴、誠にありがとうございました!


【「どうする家康」登場人物エピソード 後編】