茶々が生んだ豊臣秀頼は、秀吉の子供ではないという歴史家は多い。


また秀頼がもしも女の子なら、豊臣家は滅びなかったとする学者もいる。


秀頼の父親は、茶々の乳母・大蔵卿局の息子・大野治長だとも言われるが果たして真実はどうなのか、詳しく見ていこう。


茶々(淀殿)は近江の浅井長政とお市の方との間に、三人姉妹の長女として生まれた。


そのために茶々は秀吉の側室となると、側近には乳母の大蔵卿局をはじめ、多くの近江出身者を集めている。


そして元々いた近江出身の石田三成なども茶々のもとに頻繁に出入りするようになる。


すると豊臣家臣団には加藤清正や福島正則など多くの尾張出身者がいたため、次第に尾張閥と近江閥が対立していく。


このような対立が関ヶ原の合戦へと繋がって行く。


つまり関ヶ原の合戦は、豊臣家臣団の内部分裂であったとも言えるのである。


それはともかく、茶々は大蔵卿局やその息子で年齢の近い大野治長を信頼して重く用いた。


茶々は長男・鶴松を生み「棄」と名付けられたが、棄は三歳で逝去する。


そして1593年文禄2年、秀吉57歳、茶々は27歳の時に次男の秀頼を生むのである。


この子供は今度は「拾」と名付けられたが、すくすくと育っている。

しかし問題は茶々が秀頼を懐妊した時期に、秀吉は九州にいたことである。


秀吉は北条氏政を切腹させて天下統一をなし遂げると、次には朝鮮出兵を全国の大名に命令した。


秀吉は九州の唐津に、大坂城に次ぐ巨大な名護屋城を建設して、朝鮮出兵の拠点とした。


秀頼が生まれたのは旧暦の文禄2年8月3日だが、妊娠期間は平均280日、40週といわれる。


つまり旧暦の文禄元年11月初旬前後に秀吉は名護屋城にいたが、茶々も同じ場所にいなければならないことになる。


ところが茶々が名護屋城へ随行したという記録は存在しないという。


秀吉の側室で、京極殿とも呼ばれた松の丸殿が名護屋城に同行したという記録は残っている。


そのために松の丸殿と茶々を勘違いして、茶々が名護屋城に随行したと取り巻きが思い込んだために、見過ごしていた可能性が高いという。


つまり茶々は秀頼を懐妊したとされる前後に、秀吉とは接していないことになるのである。

ところで秀吉は高貴な女性が好きで有名だが、側室の選定では容姿第一主義を最後まで貫いた。


高貴といっても公卿ではなく、織田家や浅井家など由緒ある武家の娘を好んだ。


しかし秀吉は、飽きた側室は物のように扱うという冷酷な一面を見せている。


徳川家康が子作りのために、夫を失った未亡人の経産婦、つまり後家で出産経験のある女性を多く側室にしたのとは対照的である。


また織田信長など多くの戦国武将が男色に手を出したのに対して、秀吉は高貴な女性以外には一切興味を示さなかった。


ある武将が容姿端麗な美少年を秀吉に紹介すると、秀吉は少年に「お前に姉はいるか」と聞いたという逸話は有名である。


そのために秀吉には15人とも言われる側室がいたが、高田次郎左衛門の娘・香乃前もその一人であった。


ところが茶々が秀頼を生んでから秀吉は、茶々以外の側室を全く相手にしなくなった。


そして香乃前は、秀吉が伊達政宗と賭け碁をした時の、なんと賞品にされているのである。


勝負は結局秀吉が負け、香乃前は政宗に与えられている。


このような秀吉の薄情な態度を見て、茶々が本気で秀吉を愛したとは考えられない。


茶々は北ノ庄城で最期を遂げたお市の方に、何としても血統を残せと言い残されていたという。


また多く側室を持ちながら、懐妊したのが茶々だけというのもなんとも不自然である。

秀吉は正室の寧々に、秀頼は自分の子供ではない、と書き送った書状も存在している。


穿った見方をすれば、秀吉は秀頼が自分の子供ではないと知りながら、豊臣家存続のために、跡継ぎに祭り上げたとも考えられる。


茶々は、名門の織田家や浅井家の血統を引き継ぐ高貴な生まれである。


しかも当時は、血統よりも家の存続が第一だとされていたという時代背景があった。


秀吉は自分の子ではないと知りながら、秀頼が豊臣家を引き継ぐにふさわしいと考えたのかも知れない。


また茶々も、我が子の秀頼が豊臣家の血統を継ぐ嫡男であることを誇りとしていたため、最期まで決して真実を語らなかった。


秀吉の死後、成長した秀頼は身長が2m近くもある体格の良い青年であったという記録も残っている。


秀頼の父親が誰なのか、精子提供者が誰かについては、大野治長や石田三成、または親権を主張しない宗教関係者だとする説などがある。


家康は、面会した秀頼が背が高く、凛々しい青年であったために、豊臣家を滅ぼすことを決めたとも言われている。


大野治長は身長も高く、なかなかのイケメンであったというが、秀頼の体格という点では、治長が第一候補となるだろう。


また茶々は小さな頃から、母親がわりの乳母・大蔵卿局をとりわけ信頼して、何事も相談していたという。


茶々、大蔵卿局、そしてその息子の大野治長であれば秘密が漏れる心配は一切ない。


そのために秀吉をはじめ他者に絶対に秘密が漏れてはいけない父親、精子提供者は、やはり大蔵卿局の息子・大野治長である可能性が大である。


秀吉は秀頼が生まれると、秀頼の未来を脅かす存在として、甥の関白秀次とその一族30数名すべてを皆殺しにしている。


もしも秀頼が秀吉の子供ではないという事実が外部に漏れれば、秀吉によって関係した一族は全員皆殺しとなるのである。


このような状況下で信じ合えるのはやはり茶々と、親子であった大蔵卿局と大野治長であったのではないだろうか。


やはり総合的に考えれば、大野治長が秀頼の父親である確率が一番高いと考えられるのである。


1615年慶長20年6月、大坂夏の陣で大野治長は、茶々と秀頼、そして母の大蔵卿局とともに自害して、46歳の生涯を閉じている。


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