結城秀康は徳川家康の次男として、お万(於古茶)との間に1574年天正2年、遠江国で生まれた。


生母のお万は三河国の知鯉鮒明神の神官・永見吉英の娘で、当初は家康の正室・築山殿(瀬名)の奥女中をしていた。


しかし瀬名に承認されない間に家康のお手付きとなり、お万は秀康を妊娠して出産した。


そのために秀康は築山殿に疎まれ、家康もなかなか面会しようとしなかった。


それを見かねた嫡男の松平信康の取りなしで、秀康が3歳の時に初めて家康との面会が実現した。


しかし秀康はギギというなまずの一種に似ていた事から幼名を「於義伊」と名付けられ、家康の家臣・本多重次のもとで育てられている。


秀康が疎まれた理由としては、お万が低い身分の出身者で、しかも築山殿に側室としての承認を得ないうちに秀康を出産したためだと言われている。


また一説には秀康が双子だったために忌み嫌われたともに言われている。


家康は秀康の誕生から5年後に寵姫のお愛の方が三男・秀忠を出産すると、秀忠を跡取りにすることに決定している。


1584年天正12年、家康は羽柴秀吉と小牧・長久手の合戦で戦うが、和睦となったために家康は11歳の秀康を養子という名の人質に差し出している。


また家康を上洛させるために秀吉は自分の妹の旭を離縁させ、家康の正室として嫁がせている。


秀康という名前は秀吉が、自分の「秀」と家康の「康」をとって名付けた名前である。


秀吉は利発でものおじしない秀康を気に入ったのか可愛がり、下総の名族・結城氏を秀康に継がせ10万1千石を相続させている。


秀康は戦場では、4m近い槍を縦横無尽に使いこなす槍の名手であった。


秀吉の死後、石田三成が加藤清正や福島正則らに命を狙われた時、秀康は家康の命令で三成を佐和山城まで無事に送り届けている。


三成はお礼に秀康に「正宗」を贈ったが、この名刀は「石田正宗」と名付けられ現在まで大切に伝えられ、東京国立博物館に所蔵されている。


秀康は武勇に優れた青年に育ったが、馬を自分の横に並べた無礼な馬役を、一刀のもとに切り捨てるという粗暴な一面も見せている。


関ヶ原の合戦の後、秀康は移封となり、松平姓を名乗ることを許され越前福井68万石に封じられている。


秀康については武勇に優れ謙虚であったという面と、非常に粗暴であったという面の話がなぜかあいなかばして伝えられている。


徳川秀忠が将軍職についた時には伏見城で、同じ権中納言の上杉景勝に上座を譲ろうとする謙虚さを秀康は見せている。


一方では江戸へ向かう途中の関所で、役人に鉄砲の持ち込みを止められた時は、配下に役人を切り殺せと命じる粗野な一面を見せている。


伏見城での秀忠の将軍就任式で、出雲の阿国の歌舞伎を秀康たちは観賞した。


その時に秀康は「女性の阿国でさえ、天下一と呼ばれているのに、自分が天下一になれないのはなんとも無念である」と言ってハラハラと涙を流したという。


父・家康にうとまれ、兄でありながら弟・秀忠の将軍就任を指をくわえて見つめる秀康の、正直な気持ちだったのかも知れない。


その鬱屈した気持ちが、時によって粗暴な振る舞いに現れたようである。


越前松平家の祖となった松平秀康は病に犯され、1607年慶長12年、33歳の若さで逝去した。


死因は梅毒による衰弱死とも言われているが、なんとも不幸な星のもとに生まれた秀康の生涯であった。


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