瀬名が住む岡崎城下は千代などの武田の歩き巫女や忍びによって撹乱されたという。


瀬名と松平信康は武田の忍びの罠にはまって徳川家康に殺されたのだろうか。詳しく見ていこう。


武田勝頼は信玄亡き後も、望月千代女という歩き巫女や忍びを使って、徳川方を撹乱したと言われている。


勝頼はまだ若い松平信康が城主を務める岡崎城下に多くの忍びを潜入させて徳川方を切り崩しにかかった。


武田信玄は望月千代女という歩き巫女を重用したといわれているが、千代という女性が実在したかどうかは不明である。


しかし信玄や勝頼が多くの歩き巫女や忍びを活用したことは資料にも残っている。


望月千代女については信濃国望月城主望月盛時の妻といわれ、信濃国の滋野氏の末裔であるとされている。


千代は甲斐信濃二国の神子頭に任じられ、旧縁を頼って祢津村に移住して、両国の巫女を支配したとも言われている。


滋野氏の末裔には真田氏もいたことから、歩き巫女の千代が忍術の使える「くノ一」であった可能性もある。

それはともかく、武田軍の強さの秘密は、歩き巫女や忍びを多様して戦の前に敵の情勢を詳細に調べあげたためだと言われている。


岡崎城下では岡崎町奉行の大岡弥四郎をはじめ多くの徳川家臣が武田方に寝返ったことが記録されている。


大岡弥四郎は松平信康や瀬名を殺害して岡崎城を乗っ取り、武田勝頼に引き渡すクーデターを計画していた。


この計画は事前に発覚して大岡弥四郎たち数十名が処罰されている。


この大岡弥四郎事件は1574天正2年に決着したが、翌年に織田・徳川連合軍は武田軍を長篠・設楽が原の戦いで撃破している。


この戦いによって武田勝頼は1万人以上の兵士と多くの重臣を失い、二度と立ち直ることはなかった。


ところが織田信長は武田方との戦いがほぼ決着した1579年天正7年に、徳川家康に瀬名と信康の処分を突然に命じたとされている。


瀬名・信康事件は信康の正室の五徳姫が、父親の信長に送った「十二ヶ条の訴状」が原因だとされている。


この「信長の十二ヶ条」は、後に加筆・修正された可能性があるためにそのまま鵜呑みには出来ない。


この中に瀬名は浮気相手の医師・減敬を通じて武田方と繋がっているとする一ヶ条がある。


瀬名は唐人医師の減敬を仲介にして、徳川方の情報を武田方に流していたというのである。


もしも瀬名と信康が武田方との密通で処罰されたとすれば、二人は武田方の千代や忍びの罠にはまった可能性が高い。


『三河後風土記』によれば、瀬名は医師減敬と密会し、これを使者として武田勝頼のもとへ送って、信康が甲州方に味方するとしたと書かれている。


しかし瀬名がすでに衰えた武田軍に味方するという使者を、送ること自体が不自然である。


瀬名は何者かに武田方の医師と知らずに減敬を紹介されたに違いない。

また瀬名が減敬と不倫したというのも作り話であろう。


大岡弥四郎事件で処罰された徳川家臣たちも、武田方の歩き巫女や忍びの術中にはまった犠牲者であった。


瀬名と信康も武田方の歩き巫女や忍びの巧妙な罠にかかった犠牲者となったようである。


設楽が原で大敗を喫した武田勝頼が、起死回生の策として、徳川方の内部分裂を画策したと思えてならない。


そしてこの瀬名・信康事件には、千代などの歩き巫女や武田方の忍びの者が重要な役割を果たした可能性が高い。

徳川方は武田方の画策で、岡崎派の石川数正と、浜松派の酒井忠次にすでに分裂していた。


酒井忠次は信長に瀬名と信康の弁明をほとんどしなかったという。


そして石川数正はこの事件のあと、家康のもとを出奔して、豊臣秀吉のもとに走っている。


織田信長から証拠を突き付けられた家康は、泣く泣く瀬名と信康を処刑したのであろう。


とすれば、瀬名は千代や武田の忍びに殺されたことになる。


瀬名と信康が亡くなってから三年後に、武田勝頼は自刃して名門武田家は滅びるが、勝頼は家康に最期の一矢を報いたのかも知れない。

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