足利義輝は将軍でありながら三好三人衆に斬り殺され悲惨な目にあい、その弟の義昭は室町幕府の最後の将軍になっている。


この人望厚い兄の義輝と、少々軽薄な弟義昭の足利将軍兄弟は対照的な生涯を送っている。


義輝と義昭の二人の生涯を詳しく見ていこう。


足利義輝は室町幕府の第13代将軍・足利義晴の長男として1536年天文5年に生まれた。


そして義晴の次男義昭が翌年に生まれている。


兄の義輝が11歳で12代将軍に就任すると、弟の義昭は大和興福寺に入って出家して覚慶と名乗った。


義輝は細川晴元や三好長慶と対立して、長く都を離れて苦労している。


やがて三好三人衆に担がれて都に復帰した義輝は、大名間の調停に乗り出すなど将軍としての存在感を積極的に示し始めた。


すると将軍の傀儡政権を望む三好三人と義輝の間に、埋めることの出来ない大きな亀裂が生じていく。


剣豪将軍の異名を取る義輝は、武力で室町幕府を立て直そうとしたのである。


1565年永禄8年、三好三人衆と松永久秀は突如として義輝のいる二条御所を、一万の兵士で取り囲んだ。


死の覚悟した足利義輝は、近臣の者たちと最後の酒を酌み交わして三好勢に応戦した。


剣豪の塚原卜伝に免許皆伝された剣の達人であった義輝は、当初は薙刀で敵兵を斬り払っていた。


しかし味方がほとんど討ち取られると、部屋に籠って将軍家先祖伝来の名刀を、何本も畳の上に突き立てた。


そして侵入してくる敵兵を次から次へと斬り倒した。


義輝は刀が折れたり斬れなくなると、畳に突き立てた刀に替えて応戦したために、三好勢はなすすべもなく被害は拡大する。


そのため三好方は数時間が経過して、疲れが見えはじめた義輝の足を長槍ですくう作戦に切りかえた。


遂に足をすくわれて倒れた義輝に襖や障子を被せ、三好勢はその上から槍で突き刺して仕止めたという。


孤軍奮闘した足利義輝であったが、遂に三好方に討たれた。享年31であった。


兄の義輝が殺害されると、一条院門跡となっていた義昭も幽閉される。


義輝の近臣であった細川藤孝らが義昭を救いだして、最初は越前朝倉氏を頼った。


ところが上洛の意志がない朝倉義景を見限った義昭は、次に織田信長を頼った。


作家の司馬遼太郎氏はこの時に義昭と信長の間を取り持ったのが明智光秀だとしているが、確かな資料はまだ発見されていない。


信長はすぐに義昭を奉じて上洛すると、三好三人衆に担がれていた14代将軍足利義栄は四国へ逃げ帰り病死している。


室町幕府第15代将軍に就任した義昭のために信長は二条城を造営してしている。


宣教師のフロイスは「完成に4~5年はかかる巨大な城を、信長は自ら陣頭指揮をしてたった70日間で完成させた」と驚きをもって記録している。


フロイスは織田信長の印象を形式にはこだわらない、工事現場でも気さくに面会する、頭の回転が早い人物だと評価している。

一方、足利義昭については万事形式的で、直接に話すのではなく、家臣を通じて会話する。


フロイスは将軍義昭が要領をえない頼りない人物だと感じたために、時期王者は信長に違いないと書き残している。


しかし実際の義昭は兄の義輝を見習って政治の実権を握ろうとしたため、次第に信長と対立していく。


義昭は武田信玄や朝倉義景らにはたらきかけて信長包囲網を構築して信長を苦しめた。


1573年元亀4年、義昭は武田信玄の西上作戦に呼応して槇島城で挙兵するが、失敗して義昭は京都を追われている。


ここに足利尊氏以来、230年にわたる室町幕府は名実共に滅亡したとされている。


「幕府再興」の夢を捨て切れない義昭は、その後も河内、堺、紀州を転々として、1576年天正4年に毛利氏を頼って、備後の鞆の浦に移った。


義昭は毛利輝元の力を借りて「鞆幕府」を立てて信長に対抗した。


1582年天正10年6月、本能寺の変で織田信長が討たれた情報を聞いた義昭は「今度信長のことは、天命逃れがたく、遂に自滅した」と述べたという。


権威を上手に利用する能力に長けていた足利義昭は、兄の義輝とは違い武力ではなく外交能力によって幕府を再興しようとした。

そのため義昭は徒手空拳であっても相手を味方につけことが出来たので、兄の義輝のように殺害されることはなかった。


信長にかわって天下人となった豊臣秀吉には一万石を与えられた義昭は、京都へ戻ることを許されている。


再び出家した義昭は秀吉のお伽衆などをつとめて1597年慶長2年に没している。享年61であった。


無類の剣豪で武人としても潔い兄の足利義輝であったが、時代の波には逆らえずに悲惨な最期を迎えた。


一方の弟・義昭は軽薄さを持ちながら、権威をうまく利用する能力を駆使して、戦国時代に天寿を全うしている。


足利義輝と義昭の生き方から、権威を持つ者が権力者と共存するためには、どうすべきかが学べるのである。


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