武田勝頼は織田勢に天目山へ追い詰められると、妻でまだ19歳の北条夫人を抱きしめながらともに自害した。


武田勝頼の最期を詳しく見ていこう。


武田勝頼は信玄の後を継いで、1573年天正元年に武田軍団を率いている。


勝頼は翌年には父・信玄も落とせなかった難攻不落と言われた徳川家康の高天神城を攻めて落城させている。


定説では武田勝頼は凡将であったために、多くの家臣たちが離反して武田家は滅亡したと言われて来た。


しかし近年では、武田家の経済を支えてきた甲州金山の産出量の減少が没落の最大の原因だと言われている。


特に有名な甲州北部の黒川金山は勝頼の時にはピーク時の半分以下に産出量が減っている。


武田信玄は家臣への褒美に、甲州金を手ですくって与えていたという。


武田軍団の強さの背景には、豊かな黄金を輩出する金山の存在があったのである。


また定説として、長篠・設楽が原の戦いで武田騎馬隊は、織田軍の鉄砲三段撃ちの前に敗れ去ったと言われてきた。


しかし現在では武田軍の騎馬隊や織田軍の鉄砲三段撃ちはなかったとされている。


武田軍の兵力が1万5千であったのに対して織田・徳川連合軍は3万8千であったために織田・徳川連合軍が圧勝したとされている。


見通しの良い平原での野戦で倍以上の敵に勝利することは、ほぼ不可能であるため、当然の結果だった。


山岳地帯で米の産出量も少ない甲州・信州を基盤にした武田軍団の、強さの秘密は甲州金であった。


武田勝頼は金の産出量が半減した中、家督を引き継いでよく健闘した。


しかし「金の切れ目が縁の切れ目」とも言われる通り、家臣たちの離脱を止めることが出来なかった。


また金の不足から十分な鉄砲を手に入れることも出来なかった。


つまり勝頼が凡将だからではなく、経済的理由で武田軍は弱体化したのである。

また勝頼は信玄が重用した隠密組織も、引き継いで十分に活用している。


勝頼は家康の長男・松平信康の城下町である岡崎にも歩き巫女などの忍びを放って、岡崎町奉行の大岡弥四郎を武田方に引き込んでいる。


そのために岡崎城主の松平信康や築山殿の動きはすべて武田方に筒抜けであったようだ。


勝頼は大岡弥四郎が岡崎城を乗っ取る手筈を整えて長篠の合戦に出陣した。


ところがこれを阻止したのが家康の家臣・服部半蔵である。


半蔵は伊賀者を使って大岡弥四郎の動きをつかむと弥四郎を捕縛した。


そして弥四郎やその関係者はすべて処刑されて、勝頼の計画は水の泡となった。


服部半蔵が家康に重用されて出世した影には、こうした活躍があったのである。


勝頼は弥四郎の計画が露見したため、やむなく1万5千の兵力で倍以上の織田・徳川連合軍と設楽が原で戦い、大敗する。


その後に信長と家康は、岡崎城主である松平信康とその母・築山殿にこの時の責任を取らせてたと言われている。


武田軍にとって長篠・設楽が原の戦いでの大敗が致命的となった。


武田24将などの主だった家臣たちの多くをが失った勝頼は、二度と武田軍を元のように立て直すことは出来なかった。

米も黄金も使い果たした勝頼を、家臣たちは次々と裏切ったが、若い妻の北条夫人だけは裏切らなかった。

北条夫人は1577年天正5年、14歳で勝頼の正室に迎えられた。


北条氏康の六女であったために北条夫人と呼ばれたが、その時に勝頼はすでに32歳で、親子ほども年の離れた夫婦であった。


しかし北条夫人は勝頼と仲良く躑躅ヶ崎の館で、つかの間の幸せな日々を過ごした。


ところが北条夫人は不運にも嫁いでからわずか5年で、武田軍は織田・徳川軍に大敗して最期の時を迎えた。


北条夫人は次々と居場所を追われついに天目山に追い詰められるが、最後まで勝頼を見捨てなかった。


勝頼が天目山にたどり着い時、供の者と女房たちをあわせてもわずか40人ほどであった。


勝頼はまだ若い北条夫人が不憫で、何度も実家の北条氏へ帰るように説得している。


しかし北条夫人は「もとより夫婦は二世の契り、手を取り合って三途の川を渡って、のちの世を約束したい」と言って讓らなかった。


先に北条夫人が短刀で喉を突き刺して自害したが、武田勝頼は北条夫人を抱きしめながら折り重なるようにして自刃している。


武田勝頼と北条夫人は徳川家康によって景徳院に手厚く葬られた。


戦国大名としての武田家の命運はこの時に絶たれたが、勝頼の弟・武田信親の子孫が江戸時代に高家に取り立てられて存続している。


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