五徳は織田信長の長女で徳川家康の長男・松平信康と結婚したが、12カ条の訴文を父信長に送って、信康と信康の母・瀬名(築山殿)を殺害させたと言われている。


本当に21歳の五徳が、夫と姑を同時に殺害させるような悪女だったのだろうか。


五徳のその後を詳しく見ていこう。


五徳は1559年永禄2年、信長と生駒家宗の娘・吉乃の間に長女として生まれている。


五徳の同母兄には織田信忠と信雄がいる。


信長は生まれた子どもたちに奇妙な名前を付けたが、長女には五徳と名付けた。


五徳は炭火などの上に設置し、鍋やヤカンなどを置くための調理器具である。


信長は幼名を信忠には奇妙丸、信雄には茶筅と名付けるなどしている。


五徳は姫の名前にしてはあまりに無粋なので、のちに徳姫とも呼ばれている。


信長は家康と同盟を結ぶと、まだ9歳の五徳を家康の長男で同じく9歳の信康に嫁がせている。


やがて成長した五徳と信康の間には、登久姫と熊姫という二人の女の子が生まれた。


信康は17歳で武田軍との合戦で初陣を飾ると、続く戦いでは武功を挙げて、その勇猛さは近隣諸国にも響き渡った。


松平信康と五徳のその後についての従来の通説はおおまかには次のようである。


やがて松平信康は粗暴な行動を繰り返して、周囲の者を困惑させるようになる。


そして信康は祭りでは踊りの下手な領民を射殺したり、鷹狩で出会った僧侶を殺害するなどの残虐な行為を平然と行った。


また築山殿と共謀して信康は武田方に通じようとしたため、正室の五徳が信長に12カ条の訴文を送って知らせた。


五徳の訴文を読んだ信長は、徳川家の家老・酒井忠次を呼びつけて詰問したが、忠次は全く反論しなかった。


そのため信長は家康に瀬名と信康の処刑を命じた。


家康は泣く泣く瀬名を殺害して信康を切腹させた、という通説が最も支持されてきた。


ところが近年、瀬名と信康の殺害には「大岡弥四郎事件」が深く関与しているという説が注目されている。

この新しい説は、信康は武勇には優れていたが、まだ経験不足のためか、内政については家臣にまかせきりの面あったというものである。


そのため信康は家臣の大岡弥四郎を重用したが、弥四郎は徳川家の譜代家臣であった。


弥四郎は計算などの才能に優れていたために、家康のもとで出世して信康付きとなって、岡崎の町奉行などをつとめている。


別の資料によると名前は大賀弥四郎で、中間という低い身分とされているが、実際の姓は大岡で信康の側近であったようである。


そして1575年天正3年4月、ついに「大岡弥四郎事件」が勃発する。


この事件は弥四郎が武田家に内通して、岡崎城でクーデターを起こそうと画策したが、発覚して未遂に終わった事件である。


弥四郎は信康を切腹に追い込んで岡崎城を乗っ取り、武田勝頼を城内に引き込もうと計画した。


この計画は未然に露見して弥四郎は処刑され、妻子は磔の刑にされている。


多くの資料が譜代家臣の大岡ではなく中間の大賀としたのは、のちに事件をできるだけ矮小化しようとしたと思われる。



つまり家康の譜代家臣が事件を起こしたとなれば、家康の威信に傷がつくため、名前の大岡を大賀に変えた可能性がある。


「岡崎東泉記」によれば、当時は武田氏が遣わした歩き巫女が岡崎城中にまで浸透し、徳川方を撹乱していたという。


岡崎城下はすでに敵国・武田氏に調略されていたのである。


若い信康は武勇には優れていたが、内政面において家臣の謀反未遂事件や城下の混乱を防ぐことが出来なかった。


信長は長篠の戦いで武田氏を破り、武田氏との戦いが一段落した1579年天正7年、松平信康に岡崎城主としての責任を取らせて切腹させたというのである。


信康の統治者としての能力を問題にされた家康は、信長の指示に従うしかなかった。


また瀬名は信康の助命嘆願のために家臣に、介錯させて自害したという。


つまり瀬名と信康は、五徳の12カ条の訴文によって処刑されたのではない、ということになる。


この瀬名・信康殺害事件については一次資料が存在しない。


そのため「三河物語」や「松平記」などの資料に頼る以外ないが、これらの資料は「神君神話」により徳川家康を神格化する傾向がある。


そのため織田氏出身の五徳や今川氏出身の瀬名(築山殿)を悪女にして、江戸時代に入って物語を完結させようとした可能性がある。


とすれば五徳は瀬名とともに、徳川政権下の江戸時代に、悪女に仕立てあげられたことになる。


また家康は信長に信康の弁護をしなかった酒井忠次を生涯、恨み続けたと言われている。


だが信康切腹の責任を家康に転嫁された酒井忠次こそいい迷惑である。

いつの時代も上司は気まぐれで身勝手で、その部下は哀れである。


五徳はその後、二人の娘を徳川家に置いて、生まれ故郷の清洲に戻って暮らした。


本能寺の変で父と兄を失った五徳は、その後京都に移って剃髪後、見星院と名乗って質素に暮らし、78歳で逝去している。


瀬名・信康の殺害に大岡弥四郎事件が関与したとする説が事実だとすれば、織田信長の娘だということで、気のきつい悪女としてのイメージがつきまとった五徳だが、意外と質素で慎ましやかな女性だったのかも知れない。


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