柴田勝家は1526年頃、土豪柴田勝義の子として尾張に生まれたと言われている。


勝家は、若い頃から勇猛さは有名で織田信秀に仕え、1551年に信秀が死去すると、信長の弟の織田信行に家老として仕えた。


翌年の清洲城攻めでは大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てている。戦場では「かかれ柴田」との別名で呼ばれたほどで、「かかれー!」と大声を上げて味方を鼓舞したという。


やがて信長の生母の土田御前は、嫡男である信長を疎んじ、弟信行を溺愛する。1556年、ついに信行が柴田勝家らと謀反を起こすが、信長に敗れる。


この時は生母土田御前が懸命に命乞いをしたため、信長は仕方なく信行らを赦免した。


しかし翌年、再度信行が謀反うぃ計画したため、勝家はたまらず信長に報告。信長は仮病で信行を清洲城におびきだし、河尻秀隆らに殺害させた。

信長の信任を失った勝家は、桶狭間の戦いや美濃攻めには参戦を許されなかった。

1568年、信長が足利義昭を伴い上洛した頃からようやく同行が許されるようになった。


勝家は一途な性格から信長に絶対的な忠誠心をもち、信長もあつい信任をおくようになっていく。


一向一揆を鎮めるなどの武功をあげ、勝家は、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉とともに織田四天王といわれ、織田軍団の長老格となる。


しかし1582年、本能寺の変の時、勝家は魚津城·松倉城を包囲中で、上杉景勝の抵抗にあって京都へ戻ることができなかった。


そのため、織田家の後継者を決定する清洲会議では、羽柴秀吉に主導権を握られ、対立する。


ただ、勝家の念願であった信長の妹お市の方との再婚はこの会議で認められた。

この再婚は、勝家の不満を和らげるため、秀吉が仕組んだとの見方が多い。


1583年の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、勝家は北庄城で自害。お市の方も後を追う。茶々、初、江の娘三姉妹は秀吉に保護された。


そしてこの三姉妹がそれぞれ数奇な人生を歩んでいくことになる・・


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