豊臣秀吉は1537年、尾張国(愛知県)中村で、足軽木下弥右衛門と仲の間に生まれた。幼名は日吉丸。


7歳で父を亡くし、母が再婚した竹阿弥には虐待を受け家出。針売りの行商などをしながら諸国を見聞した。


武士になりたいとの思いで織田信長に仕えた1554年頃から、木下藤吉郎と名乗る。


1561年、ねねと結婚。清洲城の普請奉行や台所奉行で活躍し、織田家中で頭角をあらわす。

1570年、朝倉攻めでは、浅井長政の裏切りにより信長が絶体絶命の窮地に陥るが、明智光秀とともに殿を務める。


続く姉川、小谷城攻めでも武功をあげ、秀吉は信長から北近江の領地と長浜城を与えられた。

この時に、織田家臣団の長老格、丹羽長秀と柴田勝家から一字づつをもらい、羽柴秀吉と名乗った。


1579年には毛利の中国攻めに参戦。三木城や鳥取城を兵糧攻めで陥落させる。


そして備中高松城を水攻めで攻撃中に、本能寺の変を知る。 毛利氏とは急遽和睦し、10日で京に戻る「中国大返し」を行う。


1582年天正10年6月、秀吉は主君信長を裏切った明智光秀を山崎の戦いで討ち取った。


その後、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、勝家の妻お市の方の娘三姉妹を秀吉は救出。この三姉妹の長女茶々が、のちの淀殿である。


秀吉は、石山本願寺跡に広大な大坂城を築き本拠地とした。

1585年には朝廷から関白、翌年には大政大臣に任じられ豊臣秀吉と名乗る。


また、徳川家康には妹朝日を嫁がせ、母の大政所を人質に差し出し、家康をなんとか手なずける。

そしてついに1590年、小田原、奥州を平定し、天下統一をなし遂げた。

秀吉の成功は、石田三成を頂点にした官僚組織、テクノクラートシステムを構築したことにあるといわれる。秀吉はその後、 太閤検地や刀狩を実施。


しかし、次第に独断が目立ち、2度にわたる朝鮮出兵に失敗。さらに、関白秀次とその家族数十名を殺害するなど、晩年は失策が続いた。

1598年、秀吉は遺言として、秀頼を守り支えて欲しいと家康らに言い残し没する。


しかし、秀吉の死後わずか二年で関ヶ原の戦いが勃発。時代は徳川へと移って行く。


【豊臣秀吉】ユーチューブ動画

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