北条政子は1157年、伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれた。


伊豆の役人でもあった時政は、平治の乱で敗れ、伊豆に流されていた源頼朝の監視役であった。しかし時政が京都へ赴任中、政子は頼朝と恋仲になってしまう。


そして周囲の反対を押し切り、頼朝の妻となる。頼朝との婚姻は1177年頃と推定されている。


頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。政子は、源頼朝存命中はよき相談相手として夫を支えた。


1199年、頼朝が亡くなると、政子は出家して尼御台と呼ばれた。法名を安養院といった。


頼朝が36歳の時にできた長男頼家が、18歳で鎌倉幕府第2代将軍に就任。しかし頼家の未熟さゆえ、御家人の不満が募るのを見るや、頼家を退けて修禅寺に幽閉。さらにそれに反発した比企能員一族を滅ぼし、頼家も暗殺された。


父の時政が後妻と組んで政権の乗っ取りを企んだときも、政子は悩んだ末、1203年、父を伊豆修禅寺に幽閉する。時政は翌年、北条氏が放った刺客に暗殺される。


1203年、実朝が12歳で第3代将軍に就任。1218年には武士として初めて右大臣となる。だが翌年実朝は、頼家の次男公卿に、鶴岡八幡宮で殺されてしまう。

政子はこの時、頼朝の直系が絶えてしまうという最大の危機をむかえる。


そして1221年、後鳥羽上皇が討幕を決意して挙兵する。いわゆる承久の乱である。


いきなり 「朝敵」 となって動揺する御家人たちを前に、政子は「最期の詞」と前置きして大演説をぶった。それを聞いた諸将らは、感動にむせび泣き、頼朝の御恩に報いようと誓い、戦場に向かったという。


戦いは幕府軍の大勝利に終わり、その後の政治の実権は、政子の弟、北条義時に委ねられ、執権北条氏の政治が続くことになる。


【北条政子】ユーチューブ動画

https://youtu.be/Qn_8p53-_C0