★亡父は長野県出身の元軍人(陸軍特務機関員。終戦時は陸軍少尉)。敗戦の日である昭和20年8月15日を10日以上も過ぎても戦い続け、8月26日に多くの戦死者を出して戦闘を終えた第二次大戦最後の激戦地「虎頭要塞」戦(ソ満国境)の数少ない生き残りの一人でした。戦後は、戦争の真実をよく知っていた元軍人で特務機関員だからこその、筋金入りの反戦平和主義者として生き、’60年安保闘争では戦友たちと一緒に岸信介政権と戦い、またベトナム反戦運動と「ベトナムの子供たちに本を贈る運動」などにも関わるなど、非常にアグレッシブで進歩的な考え方の持ち主でした。
反面、花や芸術が大好きで、生前は「戦争さえなければ、音楽学校に行きたかった」と時々言っていて、それが実に澄んだ目で言うものですから、私は子供ながらに不思議な感覚だったことを覚えています。また一方で、礼節に非常に厳しく、物事を深く考えることの大切さも教えてくれた良き父親だったとは思います。長男の私の影響なのでしょうが、80歳を過ぎてからジャズを聴き始め、「ジャズって、いいもんだな」と電話をくれたり、死ぬ前にはジョアン・ジルベルトなどのボサノヴァも聴いていたようです。いいオヤジでした。たまたまですが、高倉健さんと同じ命日です。(写真は若い頃の父。上:太平洋戦争が始まった昭和16年頃かと思いますが、蒙古=現モンゴルにて。下:戦争末期の昭和20年5月、舞鶴中部第71部隊にて。)