南米チリにかれこれ20年近く住んでいる私ですが、30年以上前、年号が平成と改まった年に私は大学生になりました。


五十音順にクラス分けされた中に、全盲のKちゃんがいました。





彼女は大学入学後に目の病気が進行し失明し、2年休学する間に生活訓練をうけ、復学したのでした。


2歳年上だったけれど、気さくで会話も楽しいKちゃんとは、クラスメイト皆が仲良くなり、彼女とさらに3人加えて私の一人暮らしのアパートでお泊り会をしたこともありました。


大学入学後まもなくで、何もかも新しく楽しい時代、夜遅くまで笑いが絶えない会でした。




またやろうね!と約束しつつ、皆お互いに忙しくなったり、私もその後は自宅からの通学に変わり、結局お泊り会は出来ませんでした。


それでも大学構内であえば必ず近寄って挨拶し、一人で白杖を持って歩いてる時は一緒に付き添いました。


私の母校は日本福祉大学といい、福祉職全般を目指す学生が多くいましたが、特徴的なのは学生の中にも障害を抱えている人が少なくなかったことです。視覚障害、聴覚障害、車椅子の肢体不自由な人も足を引きずっている人、色々でした。


大学であまり真面目に勉強しなかった私でしたが、あのように障害を持った人が日常に隣に居合わせる風景は、本当に良い環境だったと懐かしく思い出します。




全盲はKちゃんだけでなく、盲導犬を連れた人、白杖を使って全然スピードが衰えずにサッサと歩ける人もいました。Kちゃんは視力を失ってまだ月日が経っていないので、ゆっくりゆっくり歩く感じで、一人で歩いていれば必ず付き添い、誰かと歩いているときも「Kちゃ〜ん!ワタシ〜」と声をかけました。

声をかけるとパッと顔をほころばせて、「あ!hisaikeちゃん!」と言ってくれました。




私が通学生になってからはよく大学の最寄り駅までの行き帰りの道を歩きました。大学は駅からダラダラと上り坂を歩かねばならず、「大学さあ、ちっともノーマライゼーションじゃないよね!この駅までの道、夏は暑いし冬は寒いし!」とブツクサ文句を言いながら笑いながらKちゃんと歩きました。


「あ、ねえねえ、今ね夕焼けすっごいキレイだよ〜。」と私が言うと、
「そうなんだ!今日は風も爽やかで過ごしやすかったよね!」とKちゃん。

いつも何気ない会話のキャッチボールを続けてくれるのが上手いKちゃんは、喋りすぎず黙り過ぎず合いの手を入れるのが上手で、気がつくと彼女とはいつでも他愛もない事で話も盛り上がるのでした。

もともとの性格なのか、視覚障害を背負ってからなのか判断は付き兼ねましたが、彼女からは恨み節、不平不満、愚痴を聞いた覚えが無く、いつも話していて楽しい人でした。




卒業後も時々思い出し、ああ手紙を書きたいな、どうしてるだろうか?と思いながらも「読めないKちゃんに手紙なんて出せないよな」と最初から諦めてしまいました。カセットテープに声を録音しようか…。あれこれ思っても結局実行にはうつしませんでした。


母が数年間、点字講座を受け、点字を習っていたので教えて貰えばよかったのに、それもせず、いつしか忙しさの中で忘れていきました。


それが卒業してもう何年もたったある日、NHKのニュースを見ていたら、何かのイベント、視覚障害者のための絵画展か映画展かが開催されたという映像が流されました。それを何の気なしに見ていたら、参加者のインタビューでパッと懐かしいKちゃんの顔が現れました。イベントに対する感想を述べていました。いつも照れ笑いのような笑顔のKちゃん、変わってない、昔のままだ!


こんな形だけど、元気な姿が見られてよかった! 


そう思いました。




今も時々彼女のことを思い出します。


どうしてるだろうか?

結婚しちゃったかな?

姓が変わってるかもしれないな。

何してるんだろう?


やり残した宿題のような罪悪感というか、申し訳無いような、自分の怠惰さが恥ずかしいようなちょっとモヤっとした気持ちを未だに持っています。


20年以上前は今のスマホのようなものが無かった時代。連絡がとれなくても仕方無かったかもしれません。


でも今これだけ便利なものがあるのに、私が障害を持っている人に何かサポートしてるだろうか?というと、やっぱり何もしてないのです。


結局宿題はやり残したままなのです。


いま、そこを考えているのです。