マイクロソフト BingのCoPilot をイジッテみました(試したのではない) | H.YAMAMOTOのブログ

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元理系教員です。現場では子供たちといろいろな実験、色々な授業をして楽しんできました。扱った内容の多くはその時々の話題や自然現象・技術。受験指導は退職するまでほとんどやりませんでした。その意味で、子供たちに迷惑をかけたかもしれません。後悔はしてません。

マイクロソフトの生成AI CoPiilotに聞いてみました。

 上杉謙信時代の財政状況を聞いてみました。

わたしは中世史の専門家ではありません。ある理由で20日ほど上杉謙信について調べましたが、彼の生存中に59回以上の合戦をしているのに、その当時の領主の財政状況を示す資料が見つけられなかったので、生成AIに聞いてみました。

 

その結果が以下の通りです。

自分

上杉謙信の財政状況

Copilot

 

上杉謙信の財政状況については、彼が越後国を治めた戦国時代において、特に経済政策に関して優れた手腕を発揮したとされています。上杉謙信は、税金を免除する政策を取り入れ、特に青苧(あおそ)という繊維の素材を特産品として京都に献上し、その宣伝効果を通じて越後の特産品の販路を広げました。

 

また、佐渡の金山や国内の金山・銀山を直轄し、これらからの収入も上杉家の財政を支えていたと言われています。ただし、上杉家の財政状況を具体的に示す資料は少なく、青苧が謙信の財政をどの程度支えていたかは明確には分かっていません。

 

謙信の経済力を支えたものとしては、青苧商人から得た税金や越後領内の金山・銀山からの収入が挙げられますが、これらの戦を支える経済力がどれほどだったのかは、現存する資料からははっきりとは言えない状況です。上杉謙信の経済政策や財政状況については、歴史的な推測に基づく部分が大きいと言えるでしょう。

 

自分

上杉謙信が佐渡を攻略した根拠は何か?

Copilot

上杉謙信が佐渡を攻略した根拠については、実際には上杉謙信自身が佐渡を攻略したわけではありません。佐渡は当時、本間氏が支配していた独立した国であり、上杉氏の領土ではなかったのです。上杉謙信の死後、彼の跡を継いだ上杉景勝が天正17年(1589年)に佐渡を攻略し、本間氏を滅ぼして佐渡を上杉領に組み入れました。

 

この攻略は、上杉景勝が新発田重家の乱を平定した後、佐渡の支配権を確立するために行われました。景勝は出雲崎港から300艘余りの船を仕立てて佐渡平定の先発軍を送り、佐渡の本間氏に降伏を促しました。その結果、沢根城主・本間左馬助の協力を得て、景勝自らも千余艘の船を率いて佐渡へ向かい、沢根に上陸して河原田城を攻めました。激戦の末、本間氏は抗しきれず、佐渡は上杉領となりました。

 

また、佐渡金山が上杉謙信の財源だったという話がありますが、これは新田次郎の小説「武田信玄」における創作であり、実際には佐渡金山は関ヶ原の戦い後に発見されたため、上杉謙信や上杉景勝の時代には収入源とはなっていませんでした。

 

そしてその根拠となる資料がこれでした。

謙信の財力 (https://app.k-server.info/history/uesugi_kensin/9/)

 

謙信は毎年のように、時には複数回に渡って各地に軍を派兵していましたが、それを支えていたのが当時の越後の豊かさでした。(財政が豊かであったという根拠?)

 

佐渡の金山による収入があり(ウソ)、そして染料の原料となるカラムシ(カラムシは染料ではない)を日本全国に流通させることでも、莫大な収益を得ていました(根拠?)。

 

越後には直江津という良港があり、ここで交易が盛んに行われていたのです。(直江津は青苧座の集積地)

 

謙信は生涯で70度に渡る戦闘を行いましたが、それでもなお上杉氏の財政は豊かで、多額の資金を残すゆとりがありました(根拠となる記録は不明)。

 

こうした越後の財政事情が、謙信の軍事活動を支える基盤になっていたのです。

(コメの石高は寒冷地では少なかったはず、コシヒカリからの連想)

 

  CoPilot風に返答する輩、SNSの有名人や与党の政治家にいるな、と思って笑ってしまいましたが、生成AIを懸命に推奨する人たちが 始めにしなければいけないことは Web Site に広がっているデータの真偽を Check  してそれらを排除するか、創作分野と学問分野に二分割する作業ではないのか!!!!!