大川ひろゆきのブログ 「進まなきゃ、変わらない!」 -29ページ目
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クリスマス会

昨日はクリスマス会をしました。

またまた、「篠山プロジェクト」のメンバーでした。


私は息子の野球に一日中参加しており、妻と後輩二人がコストコに買い出しに。

みんなでWiiをやったり、娘の難解な話につきあってくれたり、今日は平和でした。


やっぱり、協力し合って何かを作り上げた仲間はいいですね。

2次会

昨日は結婚式の2次会に参加してきました。


新郎新婦とも大学院の後輩です。

新郎は「篠山プロジェクト」のメンバー。


久しぶりに会えて楽しかったんですが、一緒に行った篠山プロジェクトメンバーが泥酔。

相変わらず、おもしろい。

動画作成

昨日は朝の4時まで作業・・・。


息子のチームからプロになった卒団生に贈るDVDを作成してました。

Superflyの「タマシイレボリューション」をBGMにして「かっこよく」作りました。


が、疲れました・・・。あと2本作成予定・・・。



自己紹介 part3

自己紹介って言うか、生い立ち???の続きです。



都庁を退職して、関西に戻ってきました。

長男が治ったといえ、アトピー&喘息が再発しては困るので、なるべく環境のいいところにと考え、宝塚市逆瀬台に引っ越しました。

里山はあるし、川には蛍が出るし、バス便5分で駅に出られるし、結構気に入っています。


関西に帰ってくる際に、「2年だけ大学院に行かせてほしい」と母に頼み、関西学院大学大学院総合政策研究科に進学しました。

結論から言うと、非常に勉強になったし、良い教授や仲間にも恵まれ、有意義な2年間でした。


中でも、篠山市役所、篠山市商工会と行った産官学連携事業(まちづくり)は、多くのものを得ることが出来ました。2年間に渡り、篠山市の「観光」「中心市街地活性化」「人口推計」などを調査・分析し、半年毎に報告書を作成しました。最後には、篠山駅口でイベントを行い、新聞などに取り上げられるなど、篠山市の活性化に大いに寄与できたと自負しています。

http://www.city.sasayama.lg.jp/shoko/sankangaku.html


篠山市役所や商工会の方々にも非常に喜んでいただけたので、大学院修了後も1年間、コーディネーターとして、事業に関わりました。一応、大学院の授業の一環で行っているので、教授4名で指導に当たってくださるのですが、ほとんど全てを私に任せて?下さいました。


このときのプロジェクトメンバーとは未だに連絡を取り合い、数ヶ月に一度は、集まってワイワイやっています。


大学院では、修士論文のテーマに「宝塚市の高齢化」を挙げ、各小学校区での高齢化を推計しました。

宝塚市の南部は、良元、小浜、長尾といった昔からの集落と、高度成長時代に山手に建設されたニュータウンとで成り立っています。昔ながらの集落に比べると、ニュータウン型の地区は、同時期に同世代の世帯が大量に入居したため、子供の数が一気に増え、その後15年ほどで、高齢化が急速に進みます。

これは、高齢者だけでなく、退職した人も増えていきますから、坂道が多いところでの生活を軽減するためのハード整備だけでなく、生き甲斐を感じられる場所を提供するソフト整備も必要になります。

また、高齢化の速度が早いため、早急に対策を取る必要があります。

しかしながら、宝塚市全体の高齢化率を見ているだけでは、その局所性や速度の大きさなどはわからないのです。


またまた、長くなってしまいましたが、とりあえずこれで終わります。


忙しい・・・。

今日は朝から自治会の総会。私は一応、副会長なので出席しました。

かなりの量の議題がありましたが、一時間で何とか終了しました。すごい・・・。


昼からは、ビデオ作成。

息子のチームの卒団生が、今年のドラフトで2名、プロから指名されたので、その祝賀会が12/19にあるんです。

そこで過去の試合のビデオ等を編集して流すらしいのですが、その編集係になってしまいました。

これが結構大変で、過去のビデオ10試合分ぐらいを見ることから作業が始まります。

一人でビデオを延々見続けて、さすがに飽きました・・・。

結局見るだけで一日が終了。この作業は期日までに終わるんだろうか・・・。


作業が山積み。忙しいです。


ノック

今日は息子のリトルリーグの練習に行きました。


オールスター(5,6年生)は大会に行っており、マイナー(4年生以下)だけの練習でした。

コーチもお手伝いのお父さんも少なかったので、3年生以下のノックのお手伝いをしました。

久しぶりにバットを持ったので、手がマメだらけ・・・。


子供たちに偉そうに言っている手前、やめるわけにもいかず・・・。

手が空いたコーチが「代わりましょうか?」と言ってくれたので、「お願いします」とあっさり代わってもらいました。


夜は友達と逆瀬川で飲み会。お互い子供が野球をやっているので、野球談義で盛り上がりました。


野球ばっかりの土曜日でした。




自己紹介 part2

続きです・・・。



大学卒業後、東京都に就職し、多摩都市整備本部というところに配属されました。

簡単に言うと、多摩ニュータウンのまちづくりを行う部署で、私は開発工事の設計を担当しました。

多摩境駅より東側の地区が主な担当区域で、造成、道路、下水道、公園などの設計をしました。

いい先輩に恵まれて、本当に楽しい職場でした。


2年目の四月から、石原都知事に代わりました。知事ってどんな人だろうと興味があったので、著書を読んでみました。確か「アメリカ信仰を捨てよ」だったと思います。

「まあ、読んどかなアカンやろ」と軽い気持ちでしたが、その内容、特に日本という国の「防衛」について衝撃を受けました。なんと平和ボケした国だろうと・・・。

そこから少し政治に興味を持ち、勉強を始めました。これが政治を志すきっかけと言えるかもしれません。


さて、社会人3年目の6月に結婚し、翌年6月に長男が誕生しました。長男が誕生したときには、新宿にある本庁舎に異動しており、白金の寮に住んでいました。この寮は国道1号線のすぐ横に建っており、先輩には「東京でも有数の空気が悪いところ」と言われました。そのせいか、長男はひどいアトピーと喘息で、結局1年と少しで寮を引き払い、環境のいい妻の実家に引っ越すことになりました。

環境が変わったことと、漢方薬のおかげか、引っ越して1年ほどで綺麗に治ってしまいました。


長男が誕生したこの年(2001年)は、私にとって忘れられない年になりました。長男が誕生した3か月後、父が他界しました・・・。危篤の知らせを受けて、3か月の乳呑児を車に乗せて、深夜10時間かけて東京から帰ってきました。何とか間に合い、初孫に一目合わせることができましたが、翌日、息を引き取りました。

父の葬儀の時、自分や長男がこうして”在る”のは、父や祖父やずっと前の先祖から、連綿と命を受け継いできたからなんだと強く感じ、父や祖父たちの人生の積み重ねの上に生きているんだから、真っ直ぐ、しっかり生きていこうと決意したのを覚えています。


結局、父の死より3年後、「帰ってきてほしい」との母の言葉で、東京都を退職し、関西に帰ってきました。

その話を妻にしたとき、あっさりと「いいよ」って言ってくれましたが、よくぞ決心してくれたものだと感謝しています。


長くなりましたので、また次回に・・・。




自己紹介 part1

自己紹介です。


昭和49年9月26日、東大阪市生まれ、天秤座のAB型。


小さいときは、よく女の子に間違われ、その度に「ボク、おとこやで」と訂正していたそうです。


小学校時代は、毎日、野球やサッカーをして遊びました。

今とは違い、空き地や広い公園など、遊び場に困ると言うことは無かったです。

この頃、よく父と一緒にお風呂に入って、様々な話をしたことを憶えています。


中学時代は、陸上部に所属し、走り幅跳びの選手でした。

中河内(東大阪、八尾、柏原)の大会で、中学2年の時に、4位(5m40cm)に入賞したことがあります。

中学3年の時は、生徒会副会長を務め、体育祭や文化祭、球技大会などの運営に取り組みました。


高校は大阪府立高津高校というところで、伝統があり、かつ個性的な学校でした。

何より先生が個性的で、爆笑トークを連発し、1時限を墨すりに費やしてしまう書道の先生や、海外旅行が好きで、学期はじめの授業はその旅行の思い出話だけをし、おまけにそこからテストがでる社会の先生などがいました。

部活は、軟式野球部で、ポジションはサード、1番バッターで2年の秋からは主将を務めていました。ひたすら野球に打ち込んだ時期で、まさに青春でした。


1年の浪人の後、大阪大学工学部土木工学科に入学しました。公共に関わる仕事がしたいと考えて、土木工学を選びました。大学時代は、もっぱら読書をして過ごしました。司馬遼太郎の歴史小説、シャーロックホームズやアガサクリスティの推理小説、松下幸之助や本田宗一郎の啓発本、脳科学に関する本など数百冊は読んだと思います。社会人になる前にこれだけは読んでおくべきだろうと考えて、「古事記」と「日本書紀」も読みました。案外これが面白くて、社会人になってからいろんな神社を回って、古代史を調べたりもしました。


社会人になってからは、次回に・・・。




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