「集中力」は、アスリートにとって欠かせない要素である。

しかし、「集中力」とは何ですか?と聞かれて感覚的には理解してても論理的に答えられる人は少ないだろう。

脳科学の専門書には「神経系統の必要な部分だけが活発に活動し、他が沈静化している状態を指す」と書いてあった。脳内物質の「セロトニン」というものが活性化しているのだという。

このセロトニンが活性化する時間には制限があり、集中は数秒でピークを迎え、7分後くらいから徐々に落ち始め10~15分で切れてしまうのだという。

また、集中には一点を集中的に注意する「選択的注意」と複数のことを同時に注意する「分散的注意」があるという。

野球の場合、「選択的注意」が必要な場面は 間違いなく打席でのバッティングだろう。投手がボールを投げた瞬間、ボールの軌道や減速率、回転や回転の形、ストライクかボール、打つ・打たない、を判断する上で必要な物はまさにこの「選択的注意」だ。

かつて打撃の神様、川上哲治さんが「ボールが止まって見えた」という言葉を残しているが、これは「選択的注意」の極致の状態だったのではないだろうか。つまり、極度の集中力が動くボールを止まって見えさせたのだろう。

よく交通事故などで、衝突前のわずかな時間に「走馬灯のように過去の思い出が浮かんだ」と話す人がいるが これも もしかしたら 「選択的注意」の仕業かもしれない。

先週も話したように、投手がボールをリリースしてから 捕手のミットに届くまで球速が150キロで約0.4秒だ。打席ではこのたった0.4秒で「セロトニン」を最大限に活性化し 集中力をMAXにさせる事が必要なのだ。

ただ、プロ野球選手といえども生身の人間である。毎回集中力をMAXにできるとは限らない。一生懸命、MAXにしようと思っていても どうしても散漫になってしまう時がある。

時には、極度の緊張やプレッシャーに気を取られ、集中力をMAXにする事を疎かにしてしまう事もあるだろう。緊張やプレッシャーで身体が硬直し、普段の自分でない事に気を取られ、結果、集中する事を疎かにしてしまうのだ。

思い出されるのは1984年のロサンゼルス・オリンピック。このころ、野球はまだ公開競技だったのだが、日本は決勝まで駒を進めた。対戦相手が地元アメリカという事でドジャースタジアムは超満員だった。

観衆5万9千人のほとんどがアメリカ応援で 日本代表の私達を応援していたのは 「日の丸おじさん」も含めて数十人ぐらいにしか見えなかった。

何しろ、360度、全て アメリカの応援で人間ウェーブも人生で初めて見た。「U・S・A!」と、凄まじい大合唱と声援が球場を包んだ。そして、我々がウォーミングアップを始めると今度はブーイングの嵐である。


ベンチの上で 怖そうな白人のアメリカ人が我々に大きな罵声を浴びせる。英語なので何を言っているかは分からないのだが、相当、汚い言葉で我々を罵っている事だけは理解できた。

当時、私は22歳。日本チームの平均年齢も23~4歳と若いチームだった。こんな若いチームにオリンピックの決勝戦という大舞台で、他国でこんな扱いを受ければ 動揺するのも当たり前だ。

この雰囲気に呑まれ、足が震えだした。私だけではなく、他のメンバーも 顔は真っ青で 小刻みに身体が震えているのが分かった。

ふと、3塁側のアメリカ選手を見ると、とてもリラックスしているようだった。ある者はふざけあったり、またある者は音楽に合わせ踊っていたり、うらやましいくらいリラックスしていた。当時のアメリカ代表選手のほとんどはドラフト1巡目の指名を受けていてプロ入り前の余裕の布陣だった。

試合前であるにもかかわらず、 勝負あったの雰囲気だった。

そんな中、日本代表監督だった松永怜一さんが ベンチ前に選手を集合させ、身体が硬直し、緊張する我々の前で話をされた。

「あのアメリカチームを見ろ。君達は あれをマネしたら勝てない。君達は緊張しなさい。緊張してても絶対に力を出せる。このドジャースタジアムのセンターポールに日の丸を掲げるぞ!」。

この言葉、今、思えば凄い言葉だったと改めて思う。私はこの言葉を聞いて、「緊張」と戦う事をやめたのだ。「緊張していいんだ」と皆が思ったのだ。この思いは新鮮だった。
我々、日本チームは 足が震えながらも相手と戦う事に集中して 金メダルを獲得したのだ。アスリートは 極度の緊張にとりつかれた時、どうしても緊張と戦ってしまう。その結果、平常心を取り戻す事に終始し、リラックスする事や身体の力を抜く事を優先順位の1位にしてしまい、かえって集中力を阻害してしまうのだ。

実際は緊張していたからこそできる事がある。逆に言うと、緊張していないとできない事があるのだ。私はオリンピックの決勝戦という大舞台で松永怜一監督からこの大きなことを学んだ。

いやはや、昔話をすると、どうしてもブログが長くなってしまう。と、いうことで、もう一つの「分散的注意」の話は 来週にしようと思う。


さて、今週はカープとの3連戦。全くと言っていいくらい良い所がなかった。一つあげるとしたら、2戦目が負けてる状況で 「降雨コールド」となったぐらいだろう。雨が降らなかったら、苦しいゲーム展開で 3連敗の可能性もあった。

丸の犠牲フライで 追加点を取られ 能見がマウンドを降り、藤川球児が投球練習をしている中、中断となったのだ。ラッキーと言わざるを得ない。

それにしても1時間ぐらい中断があったのだがこの間、スタンドで待たされたファンは大変だったと思う。

選手達は着替えもあるし、ホームチームなら中止になったら直ぐにクラブハウスに行き お風呂にも入れる。雨が降る中、スタンドで試合開始を待つお客さんは びしょ濡れだ。

こういう時こそ、ファンサービスをして欲しいものだ。時々、イベントで先着何名かにユニホームをプレゼントしているが、こんな時にもユニホームをプレゼントしたら良いのではないか思う。Tシャツでもかまわない。雨の日のゲームは試合が成立している、していない、にかかわらず、ファンになにかを還元して欲しい。雨の日に試合を開催する主催者側には何か一案期待したいところだ。

もちろん、これは あくまで私の個人的見解で球団経営もいろいろあるのだろうとは思う。ユニホームやTシャツの単価はもとより、それを配る経費が総額いくらするとか、チケットの回収費用だとか、全く想像できないのだから、いい加減なことは言えない。ただ雨の日に出口でユニホームやTシャツを貰えれば、ファンの人たちもただ濡れて帰るより嬉しいだろう、と思うのだ。

そしてこの日、私が見ていたCS放送ではテレビ中継が1時間、中断していた。中断中の音声は スタンドから聞こえるものだけで、アナウンサーや解説者の声は 1時間前後、全く 聞こえなかった。

ようやく約1時間後に 球審がホームプレート付近にやって来て右手を上げた。すると、突然アナウンサーが話し出した。「今、審判の方が コールドを宣言しました」と。

はあ???
長い沈黙の後、いきなり「コールドを宣言した」というのはおかしいではないか。
「コールド」とは callの過去形で called=宣言した、となる。

つまり、発言を直訳すると「今、審判の方が 宣言したを宣言しました」となる。
誤った使い方だ。コールドゲームには 雨によるものの他に、濃霧や降雪といった自然現象のものや、日没や規定によって一定の点差の開いた時のゲームなどがあり、審判が「ゲーム」と宣言(コール)すればコールドゲームなのである。

つまり、試合の途中で、何らかの理由で審判が試合の打ち切りを宣言すると全てコールドゲームになるのだ。別に「コールド」と宣言するわけではないのだ。

ということで、いやいや、これまた、長いこと待たされ過ぎてか、私の変わり者が出てしまった。こういうことにあれこれ言うのは、関西弁でいうところの「ヘンコ」である。ヘンコである事は自覚しているので、この辺で今日のブログは「ゲーム」とコールしよう。

さて、タイガースは27日からドラゴンズ戦である。申し訳ないが、ここでドラゴンズを踏み台に また元気を取り戻して欲しい。特に 福留と糸井に チャンスでタイムリーヒットを打って、チームを勢いづかせて欲しいと願っている。