死ぬのにもってこいの日 | フーテンひぐらし

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永遠の放課後。なかなか大人になれない。テーマ曲は「ダイナマイトが百五十屯」@小林旭

 


先週、父が死んだ。

数年前からレビー小体型認知症を患っていたのだけど、直接の死因は認知症によるものではない。とはいえ、レビー小体型特有の身体機能の衰えで嚥下力も免疫力も落ちたところ、肺炎からの敗血症で緊急入院なので無関係とはいえない。
5月の連休明けに血圧が低すぎて危ないと言われ、家族全員が病院にかけつけた。でもその後、血圧を上げる薬で徐々に持ち直した。見舞いに行くとぱっちり目をあけてこちらを見るし、手も動かすし、何を言ってるかわかんないけど言葉を発して何か言っていた。帰り際に「また来るよー」と言うと「はい!」と大きくはっきりした返事をしたりしてびっくりした(笑)

先週の頭に私が行った時は血圧が147くらいあり、「瀕死の病人からやっと生きた人間の顔になってきたじゃん!まだ死ぬには早いってことだよ」とホッとして手を握ったのだ。
その2日後くらいに母から「また血圧が低くなっていて危ない」と連絡がきたもんだから、それは一時的なもので、こないだの危篤の時みたいにまた持ち直すだろう、と確信していた。朝から病院に居続けた心配性の母にも「無理したらまた身体壊すから、お願いだから家に帰って寝て」と言い、母は家に帰った。

そうしたら翌日早朝、父はひとりで逝ってしまった。

昔から外食時などに自分が先に食べ終わったらこちらがまだ食べていようと「もう行くぞ」と勝手に締めようとする父だったので、「こんな時もせっかちでマイペースかよ…」と思った。


バリバリの仕事人間で典型的な「男は外で稼ぎ、女は家を守る」時代の男。自分のことは語らないが、口も達者で屁理屈も天下一品、家庭では独善的この上ない人であったから、長いこと私は父がたいそう苦手であった(その父にいちばん顔も短所も似ているのが私なんだけど…)。父もまた揺れるひとりの人間であり、彼なりに(色々間違ってるけど)妻と子を愛してるんだなと思えるようになったのは本当に大人になってから、30過ぎてからだよ。

そんな父が認知症になった当初に、私が書いたけどどこにも出さなかったツイートがある。

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誰よりも口が達者で己が賢い自覚がありプライドも高かった父が、今は皆の会話の速度についてゆけず初めての歩く道のりが難しい。それを本人が最も悔しく思ってる。でも歩ける身なのはがぜん幸運。切り替えて生きような…と思う
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賢く文化的でスマートであることを至上とする父が、認知症になった自分をどう思っていたのか。

亡くなった日、父の遺したノートをめくっていたら、最初はなんとか書けていた日々の記録も、文字も、後半はどんどん書けなくなっていく。ノートをどこかにやってしまうのでそのたびに新しく用意したため、数ページしか書いてないノートが何冊もある。どのノートにも「リハビリ・サプリメント・ストレッチ」という「やるべきこと」が繰り返し書いてある。
「オヤジも、できなくなる自分と一生懸命戦ってたんやな」と弟がぽつりと言った。

病院のベッドで、苦しそうに息をしながらもこっちを見たり動いたりする父を見るたび、私たち家族は「おお、よかった、この調子で元気になってね」と応援したし、それを願っていたけど。

まるで長い上り坂をマラソンしているみたいだ、と見舞いに行くたび私は思っていた。

ゴールは見えない。でも生きて走らねばならない。

それでもなお生きたかったのか、それとももう疲れ果ててなお走らされているのか。父がその時本当にしたかったことや思っていたことは何なのだろう。
それを知りたかったなと、今でも思う。


霊安室から病院の外に出た時、表があまりにも爽やかな青空で、思わず「今日は死ぬのにもってこいの日だ…」とつぶやいてしまった。
(ナンシー・ウッドが集めた、ネイティブアメリカンの詩や言葉を集めた本のなかの詩のタイトルです)

通夜も告別式も見事なまでの快晴で、夏を思わせる高い高い雲ときれいな黄昏までおまけについていた。雨男のくせにな。

スマートに生きたかった父が、からだも頭も何ひとつ自分の思うようにならない数年間の果てに、死ぬ時だけはもってこいの日を選んだのかもしれない…と親不孝な娘は手前勝手に思うのであった。

 

 

 

 

 

 

今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。