曇り空が立ち込める朝。ここしばらく澄み渡る青空を見ていません。まあ気を取り直し今日も北へ向かいましょう。
いわきから国道6号を走ると福島第二原発、第一原発が海側にあります。その姿は見ることはできないのですが、汚染土を運搬するダンプカー増えていきます。そして第一原発が近くなるにつれて、廃屋が目立ち始めます。人気なく汚れたマンションや社宅、戸建ての庭には雑草が生い茂り立ち入り禁止のバリケードが庭先にある風景が増えていきます。
第一原発に最も近づいたところなのでしょうか、国道沿いのファッションセンターしまむらはガラスが割れ、店内にはたくさんの色あせた衣料品がハンギングされたままでした。いまだに11年前の3月11日から時が止まっています。隣の回転寿司店も牛丼店も営業しておらず原発事故の影響の長さを思います。地図を見ると富岡町か大熊町あたりでしょう。
6号線を北上し双葉町、波江町と走ります。北上するにつれて少しずつ復興を感じます。道の駅なみえは新しく、ゆるキャラの着ぐるみ人形が愛らく動いていました。南相馬市、相馬市と北上し山元町で山元町立中浜小学校跡に立ち寄りました。
海に近いこの小学校は児童職員全員が2階屋根裏倉庫に避難し、一夜を過ごし無事救助された小学校です。2階までは津波で壊れています。当日は月曜日休館で入場することはできませんでした。
ここからは海側の道で仙台の渋滞を回避し、国道45号で北上します。塩竈を過ぎ松島の観光地を過ぎたコンビニで今日の宿泊地を検索します。そして南三陸町の神割崎キャンプ場に予約をいれました。
その後北上川沿いに走り、大川小学校跡に立ち寄ります。この小学校は残念ながら多くの犠牲者を出した小学校。献花代には花束が置かれています。裏山に逃げれば助かったのにと指摘されています。
数多くの命が失われたことを思うと無念でなりません。山側に登っていればと思いますが、裏山は急峻で山道も見たところないようでした。そもそも川幅が100m以上もありそうな北上川を津波が遡ってくるなどとは想像もつきません。そしてその日も川辺では巨大な堤防工事が続けられていました。
数名の方が、ぼつりぽつりと見て歩いていました。
きれいな校舎だっただろうにいまでは見る影もありません。亡くなった子供達や職員の方、残された遺族の方々を思うと辛く悲しい場所でした。
大川小学校跡を出て、海沿いの道を行くと神割崎キャンプ場に到着します。天気が良ければ絶景のキャンプ場のようですが、海も空もくすんでいました。テントとタープを設営し、近くのスーパーマーケットに夕ご飯を買いに走ります。
今日の夕ご飯は天丼弁当と、イカフライ。スーパーマーケットの惣菜です。二十歳の頃の地方のキャンプは店もなく、米を炊いたり、カレーを作ったりでしたが今ではストーブ、コッヘル等無くてもなんとかなってしまいます。
陽も暮れてまったりしていると、猫が目の前に座ります。どうやらキャンプ場に住み着いている猫のようで、僕の反応を試しているかのような眼差し。声をかけて海老天の尻尾を投げるとくわえて逃げていきます。再び現れると視線の端っこに座りこちらを見つめます。しょうがねーな、と常備していた焼き鳥缶を開けて視線の端に置くと喜んで食べ始めました。
その後も猫は付かず離れずの距離を保ち、警戒心を解くことはありませんでした。
深夜に雨がテントを叩き、猫が焼き鳥缶の底を舐める音がするキャンプの夜を過ごします。
今日の走行ルート








