お前は私を苦しめ足りなかった Tu mancavi a tormentarmi【イタリア古典歌曲/字幕で聴く歌曲】 (youtube.com)

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逆に、苦しむのは、希望があるからという意味なのでしょうか。悲しく、つらい歌でございます。

 

 

今日は「聖金曜日」。よりによって日本では、年度末の金曜日で、どなた様も一番忙しい日でございますわよね。もう、間に合わなかったら間に合わないで、来週になったっていいじゃないかって、思いません?

 

私はいろんなところで、あなたはいらないと言われるけれど、言われる前から呼ばれていなかったと感じております。自分だけ呼ばれていなかったことに、後で気がつくこともございます。父がよく言っておりました、呼ばれなくても行ってもいいのは、お葬式だけだと。歓迎されていないと感じていても、そこにいなくてはならないならば、私なりにそこにいるしかございませんから、いれば、そこで努力も致しますので、実に効率の悪い人生を歩んで参りました。

 

昨日、70代の友人から仕事の相談を受けまして、現役時代はバリバリに管理者まで上り詰められても、今、アルバイトの募集で年齢を言うと、事務方はほとんどなくて、ピッキングと清掃しかないと愚痴られました。どうしてでしょうね。適材適所のスキルというものは、年齢に関係なく、あってしかるべきと存じますが、決めるのは派遣会社の社員ですから。

 

誰が何を決めるって、神様が決めたことには叶いませんでしょう。

 

だから、十字架にかけられたキリストの死のように、裁判で何の容疑も認められず、恩赦として釈放をすると言われても、ユダヤの民衆は、キリストではなく極悪人のバラバを釈放せよと騒ぎ立てる。ユダヤ人にキリストはいらなかったのね、いまだに。そのバラバですら、ラーゲルクヴィストの小説では、キリストの代わりに釈放された後、普通に極悪を重ね、普通に洗礼の列に並び、普通にその生涯を終えました。私も、そんなことかも知れないと感じました。不条理な民衆の騒ぎに負けた単なるくじ引きのようですが、これも長い目で見た、神の設計図だったのでしょう。

 

誰に呼ばれなくとも、神に呼ばれたら、それで十分という考え方は、苦しみの末の逃げ道かしら。でも、神の場所という休む場所があって、私は幸せでございます。こればかりは、呼ばれた者の強みです。