いろんな、言い方がありますが、いわゆる、「屈折している」性格と言うのが、

最も、適当かと思われます。

完璧主義も度を過ぎると、いろんなところにひずみが出てくるもので、

以前、依存症の専門医の齋藤先生のデイケアに通っていた頃に、

そういう意味では、私よりも、数段、上を行く、典型的な例を目の当たりにしております。

もし、私が、そこまで絶望的な状態であったとすれば、

そんなところへは行く気にはならなかっただろうと言うことは、

以前から申し上げていることで、

これでも、その筋からは、「改造人間」と言われている通り、

以前は、社会の適応範囲内からは、ほど遠い状態にあったわけです。

なので、齋藤先生自ら、「あなたの面倒を見ているほど、私はヒマじゃないんだよ!」とはっきり、引導を渡されて、晴れて、卒業の運びとなったわけです。

齋藤先生の関心がある患者というのは、もう、衝動を抑えられなくてどうしようもない、ほっとくと、社会的なタブーを平気で犯してしまうような類の人たちだけであり、そんな、「屈折している」とか、「屈折していない」とか言う議論、以前の問題であるわけです。

そんなことを言い始めたら、世の中に、「屈折していない」人間など、誰一人、存在していないわけで、齋藤先生の言わんとしていたことは、そんな議論をしているほどヒマではないと言うことに尽きるわけです。

その辺の線引きと言うのは、ちゃんとしてもらわないと、酷い誹謗中傷以外の何物でもないという話であります。

典型的なのは、幼児連続殺人犯のような例で、ああいうのは、実際に行動に出ないと、他にカタルシスを得る手段がないと言う、いかんともしがたい精神病理を抱えているケースで、そうなると医学的な面や、法的な面や、宗教的な面など、あらゆる面から干渉していく必要が生じてくるわけですが、そういうことは、私には、一切、関りのないことであります。

まあ、あえて言えば、洗礼を受ける直接のきっかけになったことではありますが、

それ以前の私を知らない人たちには、比較のしようがないでしょうが、

当時は、そんな、「屈折している」くらいの話では済まされなかったわけです。

大多数の人々には、関りのない話ですが、もう、心身ともに汚れ切っている状態で、

そんなのは、洗礼の本質とは関係がない話でと言う聖職者もいますが、

そんな発言と言うのは、私に言わせれば、信仰の欠如以外の何物でもないです。

おそらく、そういう発言の背景にあるのは、死後、私たちの魂は、「煉獄で焼かれて浄化されて、天国へ行くものである」という、カトリック教会の思想に基づくものだと思われますが、

一方では、私自身は、そんな思想は一切、持ち合わせておりません。

例の、「わが希望は汝にあり」というヤツで、そういうものが、キリスト教の一般的な信仰とされているわけですが、私は、それを全面否定しているので、そういう理由から、私は地元の教会と絶縁することになったわけです。

「キリストの救済は、生前にあってなんぼのもんだ」というのが、私の一貫した考え方であるわけですが、そんなことが、実際にあるはずがないという偏見が、そういう誹謗中傷の元になっているわけですが、一方では、いわゆる「99人の正しい人たち」には、縁もゆかりもない話であるわけです。

まあ、そういう主張と言うのは、自分の汚れた過去をなかったことにしているというとらえ方をされても、おかしくはないわけですが、まあ、平ったく言うと、そういう人生のリセットボタンを、ポチっと押すと言う、他の宗教にはないオリジナリティというものが、キリスト教の特徴であるわけです。

それでも屈折している、貴様の根性は何なんだと言われれば返す言葉はありませんが、そんなのは、私の主張するキリスト教のそういう本質をゆがめる理由には全くなりません。

前回、お付き合いした女性も、前々回の女性も、その点においては、徹底して、私との全面対決を辞さない態度に終始しており、そういうことが、未だに尾を引いている、非常に執念深い人たちです。

まあ、正直言って、腹は立ちますが、それは、今、ようやく、幸福をつかんだことの裏返しだと思って、耐え忍ぶしかないと言ったところであります。

そんなに簡単に、過去の清算をされたんではたまったもんじゃないという、一般大衆的な理屈もわからないではないですが、私は、自分に起こったことをありのままにお伝えしているに過ぎません。

信じたくもないという気持ちもわからないではないですが、だからと言って、「何も、個人攻撃をする必要はないだろ」、と言ったところで、「個人攻撃をするのは、自分がやましいことの裏返しなんじゃないですか」、というのが私の側から言わせていただく、極めて率直な意見です。