うどうも![]()
昨日に引き続き
ヒロコスモ![]()
です
この活動名で 絵や制作や 色々
ゴニョゴニョやってます
今日から
なんとなく
ただなんとなく
季節が来たので
冷やし中華
みたく
半世紀綴り![]()
始めました
。。。
アラフィフになって
大変苦手と思うことをやる
んで 今からアメブロデビュー
日本イチゆるーい
チャレンジャーです
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わたすの生まれた日![]()
私は 半世紀程昔
福岡の大牟田市という所で
台風の日に生まれました![]()
昔 母に産まれる時の話を聞いた時
この日 まずは産気づいた時
家のトイレの天井が飛んだよって![]()
爆笑しながら言ってきた
...
お母さんお母さんお母さーん![]()
なんか その時点で
私の人生のはじまり
もう嫌な予感するよ〜![]()
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まあまあ 家がお風呂も無く
ボロい家だったし仕方ない!![]()
???
。。。
父と母の出会いは
父が熊本の山鹿温泉で料理をしていて
母はお給仕をしてた時 知り合い
母曰く 父は 両親から
あまり愛情をもらえず育ったそうで
その影響が かなりあって
読み書きが難しい部分や
喋っても どもってしまう所があったそうだ
母が言うには
「だから なんか可哀想で 結婚したの」
え。。。
急に雑。。。![]()
お母さん その理由って
なんかこう 雑だよ。。。![]()
2人は 私が保育園に行ってる頃に離婚した
うん そりゃそうだろね![]()
聞くと 父はものすんごく不器用な人で
私は 父と触れ合った記憶がほぼ無い
ただ とても優しい人だったそうだ
私の知ってる父と言えば
数少ない 写真の中の父だけだ
その写真からも それはなんかわかる
父はおそらく それから
孤独な人生を送っただろうと思う
父との話は おいおい書くことにする
大牟田の記憶といえば
家にお風呂が無くて いつも歩いて
銭湯♨️に行ってた記憶だけ
両親の離婚後すぐ 引っ越してしまった為
記憶の中はそれだけ
私の産まれた直後は
大牟田の銭湯♨️に育てられたとも言える
銭湯♨️では沢山のおばちゃん達がいて
みんなが洗ってくれたり
間違えてお湯出しちゃって火傷したり
母は本来めっちゃ明るい人だったけど
私も知らない苦労があっただろうし
色々な事情で
寂しい感じの印象の家に比べて
銭湯は いつも賑やかで
みんなが顔馴染みで
みんなでっかい家族みたいで
楽しかった
家にお風呂が無かったことで
あの経験が出来たこと
良かったな![]()
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断片的に覚えてるのは
帰り道 暗い道を お母さんと歩くと
自動販売機が明るく光ってて
その自販機のジュースを
買ってもらうのが
とにかく嬉しかったこと
ジュースは決まって
缶の🍇ぶどうジュース
ジュースに ぶどうのつぶつぶが
丸ごと入ってるやつ
最後 缶の底にぶどうがくっついちゃうから
それをどうしても取りたくて
よく叩いて飲んだ
どうせ取れないんだけどめっちゃ叩くの
大好きだったな
私の幼少期にその記憶が無いけど
大牟田には大蛇山というお祭りがあり![]()
町によって違う 大蛇の山車をひいて歩く
大蛇の口から火花が飛び出たりする
私は お祭りの事は だいぶ
人生後半に なってから 知る
昔 東京で 友達のレゲエバーに
毎日の様に集まっては
飲みまくってたみんなで
バンドやろーぜーっ
つて
( よくありそな話だけど 自分がそうなるとは
思ってもみなかったw)
そん時知り合った
バンドのベーシストの友達
もう誰がみてもベーシストな その彼は
福岡の子と結婚
私も知ってたその嫁がなんと
大牟田人だった!!!
(これは 結構なレアで 人生生きて来た中で
沢山出会った人の中でも 出会ったのは
彼女のたった1人だけ
まずまず 大牟田生まれの人に会う事が無い)
その友達にお祭りの存在を初めて教えてもらい
めっちゃくちゃ人生後半になって
初めて体験しに行く
大蛇の口に入れられる
「かませ」っていうのがあって
無病息災を祈るっていう。
私が妊娠中と 息子が産まれた際に
パクついていただきに行ったんだけど
これが 結構ビビる![]()
以下 西日本新聞調べ
こんなのが
こんなんする
そりゃ子供はギャーギャー言いますがな
っていうか私がしてもらった時
ギャーギャーいうた
私はお祭りが大好きだ![]()
お祭りが大好きだったんだって
大人になって初めて気づいた
極めつけはこれ!!!
昔の飲みの席で友達が
面白いゲームあるよって言ってきた
10問位質問に答える
全部曲のタイトルで答えてねと
最後の答えの 歌のタイトルは?
という問いに
私の答えは
北島さんの サブちゃんの方の 祭り![]()
これ実は 心理ゲームで
自分にとって人生とは???
って質問なんだよ!
えーひろっぽい〜 爆笑
はいでた
人生が祭![]()
しかも 美空の ひばりさんの方じゃない
三郎さんの 方のやつの
祭![]()
わかるわー
わかりすぎる
そうでしょうねー
紅白の三郎さんの歌で
普通に泣いちゃってたもんなぁ
猫被って良い子ぶろうとしても
お祭りが 大好きすぎる
お祭り 愛
ダダ漏れの
お祭り女である![]()
んで その時初めて知った
大牟田 ご当地キャラクター
確か お祭りの 大蛇をモチーフにした
ジャーボーっていうキャラクターだった
はい この方が ジャーボーさんです
あ ボーって 坊だったんだ 知らんかった
以下 日本ご当地キャラクター協会調べ
日本ご当地キャラクター協会
■ジャー坊とは・・・
ギリギリ人間に見える姿に変化(へんげ)した
大蛇の化身で、炭鉱のまちの人々からもらった
つるはしとヘルメットがお気に入り。
まちの守り神なのだと言い張るが
その真相は定かではない。
へー そうだったんだ。。。
ほう ほう ほう。。。
ま そんな所で生まれました![]()
どんな所だよ!!!![]()
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さて 引っ越したと言っても
その後シングルマザーとなった母
生活は苦しく 母はスナック等で働いたりで
夜も居ないので
私は 後に 母の実家のある熊本で
目の病気だった 祖母と暮らす事となる
その間 母親の兄弟の居た
佐世保や 北九州 等を 転々としながら
熊本の祖母としばらく2人で暮らした
目の見えづらい祖母と
猫がいっぱい
めっちゃくちゃ古い 元々茅葺き屋根で
土間と かまどだった家に住んだ
お風呂も五右衛門風呂
なかなかの暮らし
普段は2人だけど
お正月になると 沢山
母の兄弟家族が帰って来て集まって
みんなで長いテーブル出して
お屠蘇みんなで配って
ご挨拶して
臼と杵でお餅付きをする
いっぱいいっぱい木の箱に
出来たお餅を並べて
あんこ餅と白餅を両方作って丸める
みんなで雑魚寝
昔のお正月って 賑やかだったな
でも
みんなが1人づつ帰って行くのが
寂しくて寂しくて
今思い出しても胸がギュッとなる
従兄弟のお兄ちゃんに会うと
未だに言われる事がある。。。
夜は 私が親戚の前に立ち
親戚達の前で
歌のショーを始める
歌はもちろん おきまりの
「帰って来いよ」一本公演 シンプル![]()
ひろこちゃんと言ったら帰って来いよ
やっぱ これやもんねー
あー
やってたね
三味線の真似してやってたよね
好きだったんだよなーあの歌
この歌 津軽から東京へ行った人を
待ってる人の歌だったんだー
その後自分が東京に行く事になるというね
私の祖母は もう本当にお婆ちゃんで
腰がパタンと折れ曲がっていた
そんなお婆ちゃんが 私の事を
あの年齢であの家で
面倒見てくれていたと思うと
本当に昔の人はどれだけ強かったのだろう
生活が楽でなかっただろうに
祖母が自分で貯めてくれたお金で
家は 街に出るまで 車でも遠く
自分で買いに行けないので
当時私が好きだった
ミッキーマウスの枕を
電話でお店にこっそりお願いして
プレゼントしてくれたのが嬉しくて
高校生くらいまでカバーだけは
ずっと大事に大切に保管してた
だけど古くなったからと
お母さんが普通に捨てちゃって
えらく怒ったのを覚えてる
祖母は本当に優しい人だった
もうお婆ちゃんだけど
三面鏡の鏡の前に座って
いつも櫛で紙をとかし
身だしなみを整えていた
昔の人 昔の女性だった
私が怒ったのを見たのは
たった一回だけ
それは 育ての父が喧嘩っ早く
母に怒って手をあげようとした時だった
いくら腹がたっても
大きな男の人が 女の人に
手をあげるものではありません!!!
そんな怒った顔で 大きな声のお婆ちゃんを
その時 私は初めて見た
祖母が亡くなる前連絡が来て
ひろこに早く来て欲しいと言われた
仕事ですぐに休めない両親に託され
初めて1人で
東京から飛行機で熊本の病院へ
優しい親戚が熱心に祖母の面倒を見てくれて
何度病院に世話に来ても
ひろこちゃんは?
と毎回聞くんだと優しい親戚が
ふざけて怒っていた
祖母は 私が行くと ひろこちゃんね?
と何度も聞き 喜んだ
病室での祖母との時間は
長くも短くも感じて
おぼろげだけど
なかなか東京から会いに来れない私は
手紙を良く書いたが
会いに行きたかった
こんな事なら どうにか会いに
来ておけば良かったと
強く思ったのを覚えている
全然恩返しできずに
この時が来ちゃった
ごめんねお婆ちゃん
何度もそう思った
祖母に恩返し出来なかった事を
亡くなってからも
しばらくの間 悔やんでいたなぁ
優しくて一度しか怒った事の無かった祖母
最後の最後
苦しくて痛くて
我慢が出来ず意識がもうろうとしてる中
お婆ちゃんは
病室のベットで
暴言を吐いた
お婆ちゃんが暴言を吐くのを
初めて見て
私は固まった
これ お婆ちゃん???
もしかして
お婆ちゃん
今までずっと
ずっと我慢してたんだ。。。
ずっとずっと
我慢してたんだ。。。
昔の女の強さを私は改めて知った
お婆ちゃん
こんなに意識が遠のかないと
苦しみとか 怒りを
言えなかったんだ
いっぱい我慢してたんだ
私ずっと知らなかったよ
苦しかったね
辛かったね
お婆ちゃん
やっと楽になったね
お婆ちゃん
まだ色んなこと知らなかったけど
お婆ちゃんがずっと
我慢して生きてたってことだけは
その時 はっきりとわかった
穏やかな人で優しい人に変わりなかったが
あんなに我慢してたら
しんどいよね
昔の人
昔の女性は
どれほどの我慢をして生きて来たんだろう
私は何も知らずに
お婆ちゃんと暮らしてたまま
東京に行っちゃったんだ
大好きだったお婆ちゃん
お婆ちゃん子だった私
田舎のすぎて
車で売りに来るパンをお家で買って
縁側で2人で食べたよね
お婆ちゃんは目が悪くて
パンに付いてた紙まで一緒に
ちぎって食べようとして
慌てて
お婆ちゃん!それ紙だよ!
って言って
私がむいてあげて
2人で笑って食べたね
夏はいっぱい蛍がとんで
台所からザルを持って来て
それに入れて一緒に眺めた
何を言っても 何をしても
静かに いつも隣に座って
見守ってくれてたお婆ちゃん
普段は とても静かな人だったけど
歌が大好きで
いつもレコードを聞いてた
歌を聞く時だけは 大きな声で歌ってたね
私が音楽が好きになったのは
紛れもなくお婆ちゃんの影響だ
幸せだったな
お婆ちゃん ありがとうね
ずっと大好きだよ
大好きだった祖母も 母も
2人の父も
もう居ないし
もう何か聞く事も出来ない
私には 昔の私を作ってくれた家族は
もう誰もいない
この歳になって来て
はじめて
そういう事が少しだけ
寂しく感じる事がある
家族みんな居なくなった
これが人生後半 半世紀
という事なのだろうか
だけど私自体は
あまり大人にはなれて居ない気がする
まぁいいか
祖母は病院の娘で 箱入り娘だったそうだ
その時学生として下宿してた祖父と結婚した
学校で習字を教えていた祖父は
とても 厳格な人で 祖母はかなり苦労した
と母が言っていた
写真で観てもかなり気難しい顔だ
嫁が 私だったら間違いなく
めっちゃくちゃ怒られてる
絶対やだ
祖父も結核になり 祖母も目が悪く
沢山居た兄弟の母親代わりだった母
自分も相当苦労したが
厳格な祖父で 大変そうだった祖母を
とても大切に思っていた
そんな祖母と母は 多くを語らなかったが
男性に大切にされた
という実感がほとんど無く
パートナーで苦労した
そんな自負があった
それを私は綺麗に受け継いだ節がある
あああ これ 私でもう 終わらせるやつ。。。
そう思ったのは
だいぶ人生の後半
痛イタタタタ![]()
母と幼少期一緒に暮らせなかった私
記憶に無い孤独な父
寂しげな母
怒らない祖母
怒りすぎる新しい父
みんなぽっかり空いた穴の塞ぎ方がわからず
みんな不器用で
大人になると苦しそうに見えた
ずっとずっと働き続けた母
歳とったら九州に帰りたいそう言ってた
父が亡くなっても
それでも 1人で東京で働き続けた
だけど 最初の結婚で 九州に嫁いだ私が
別居した際に 息子がまだ小さかったので
全てをやめて すぐに九州に来て
ずっとサポートしてくれた
私はその後 正式に離婚
一度整理したくて 東京に行った
母は大阪に住んだ
その際 別々に暮らしたが
一年程で大阪の母が倒れたと連絡が来た
血液が足りなくなる難病だった
一緒に暮らせなかった時を埋める様に
最後に一緒に暮らした
暮らす間に母は癌になった
その事で
色々苦しんだし
味わい深い人生にもなった
言葉にすると薄っぺらいが
病気は 色んな事 を見せてくれるもの
初めてそう思ったし
癌や 病気は
良く聞く 戦って治す
とかじゃないな
初めてそう思った
女同士で喧嘩ばかりだった
それでも
やっぱり母は最後まで
可愛らしい女性だった
でもその自分の可愛らしさを
母本人が一番知らず
病気になった様に思う
人の事はよく見える感じがするが
自分のことは簡単にはいかない
私も いっぱい苦しんでは
いっぱいいっぱい遠回りして来た
母は沢山の課題に気づくヒントを
私に残してくれた
その頃の事もまた改めて書こうと思う
さて
次回は
西武警察
大門圭介![]()
スナイパー現る。。。
をお送りします![]()



