本編に入る前に告知をさせてください。

本日金曜日は毎週の定期ライブ配信日です。

 

 

インドネシア時間21:00(日本時間23:00)からほとんど全編インドネシア語ではありますが、視聴者の皆さんのコメントや質問に答えながら1時間楽しく過ごさせてもらっています。毎週テーマを設定して、みんなからの意見を聞いたりしてるので、インドネシア語が分かる方は是非遊びに来てください。

日本語でのコメントも全く問題ないので、というか視聴者のインドネシア人の方の中には日本語を勉強している人が沢山いるのでむしろみんな喜びます。

ということで、あなたのご参加お待ちしております!

 

 

さて、今日も「PPKM:公衆活動制限」が発令されているインドネシアはジャカルタからブログを更新していくのですが、今日はインドネシアの歴史的な出来事について少し触れてみたいと思います。

 

9月30日、10月1日という二日間はインドネシアの歴史が大きく動いた日になります。あなたは「九・三○事件」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?

 

このブログ記事で「九・三○事件」の真相は!?とかそういうことを書くつもりはないですし、それは僕なんかには到底無理です。

でも、こういうことがあったんだよと知っておくことはインドネシアに関わる上で重要だと思うので、書いてみたいと思います。

 

まず初めにこの事件のことをより知りたい方は電子書籍版も発売されている「インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇(中公新書)」倉沢愛子著を是非読んでみてください。

 

 

 

さらに電子書籍にはなっていませんが、倉沢愛子先生のこちらの本も是非です。

 

 

ものすごく端折って説明すると「九・三○事件」というのは、1965年9月30日未明から翌朝にかけて起こった事件で、初代大統領スカルノが軍事政変によって退き新大統領スハルトが誕生し、その後インドネシア国内に大虐殺が起こり、華僑迫害がエスカレートしていく契機になった事件です。

 

実際に初代大統領のスカルノが正式に大統領の地位を追われるのは1966年3月11日の「三・一一政変」と呼ばれるクーデターが起こった一年後の1967年3月7日、またスハルト大統領が正式にインドネシア第二代目の大統領に就任するのはさらに一年経った1968年3月になるので、「九・三○事件」からは2年半後のことになるのですが、それはまたの機会に。

 

この「九・三○事件」はその真相が長年にわたって議論されてきた事件ですが、「何が起こったのか、実行者は誰なのかについては大方の証言が一致している」(「インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇(中公新書)」倉沢愛子著)とされています。

 

1965年9月30日の夜、大隊長ウントゥン陸軍中佐に率いられたスカルト大統領の親衛隊チャクラビラワ連隊配下の軍人たちが、七人のトップクラスの陸軍将軍の家を襲い、その場で彼らを射殺、あるいは生きたまま連れ去った。国防大臣のナスティオン大将は身を隠して何を逃れたが、副官と6歳の娘が犠牲になる。拉致された者ものちに遺体となって発見され、犠牲者は計8人にのぼった。

(「インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇(中公新書)」倉沢愛子著)

 

これがまずは始まりです。

なぜ、いきなり陸軍将軍たちが殺害されてしまったのかというと、襲われた将軍たちは大統領を倒す計画を立てていたのでそれを未然に防ぐために行動を取ったという説明がなされました。

 

翌10月1日、スハルト少将率いる陸軍戦略予備軍司令官(コストラード)がすばやく反撃に出て革命評議会の率いる部隊を粉砕し、その後夜9時には「事態を掌握した」との発表を行う。はやくも10月2日には、スハルトはこの事件がインドネシア共産党(PKI)によって仕掛けられ、実行されたものだという解釈を出している。
(「インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇(中公新書)」倉沢愛子著)

 

要は国軍が「国家や大統領に対する反逆である」と殺害された陸軍将軍やインドネシア共産党の人たちを位置付けるということが行われました。

 

この後、1965年10月3日にハリム空軍基地(ジャカルタに住んだことがある方、バリとかジョグジャに行くときにハリム空港って使ったことありますか?あそこです。)近くの古井戸ルバン・ブアヤから「九・三○事件」の犠牲になった7人の軍人の遺体が発見されます。

10月5日にはカリバタにある英雄墓地で式典が行われ、この殺害された将官たちは「革命の英雄」と認定され、全員一階級特進とされ埋葬されました。

 

 

さて、この「九・三○事件」の黒幕は一体誰だったのかというのは今も議論はあるのですが、この事件が公的に「G30S/PKI:インドネシア共産党が起こした九・三○運動」と呼ばれていることから見ても、主犯は「PKI:インドネシア共産党」とされています。

#事件が日付が変わって10月1日未明にかけて発生したことにちなんであえて「一○月一日運動:Gerakan Satu Oktober」通称「ゲストック」と呼ぶ人たちもいます。

 

 

ちなみにインドネシアのメディア「Tempo」は昨日2021年9月30日付で「G30Sの黒幕は誰だったのか?」という記事を書いていて、この中で「PKI:インドネシア共産党」以外にも「陸軍内での内部闘争」、「スカルノ」、「スハルト」、「アメリカ合衆国CIA:中央情報局」という合計5名・団体の名前を挙げてそれぞれの可能性について書いています。ちなみにこれは倉沢愛子さんの著者の中にも各々触れられているところです。

 

さて、この事件が世界的に大虐殺に発展していくのはここからで、インドネシアの二代目大統領で当時少将だった「スハルト」が率いる陸軍戦略予備軍司令部(コストラード)が治安を掌握し、国軍が「九・三○事件」は「PKI:インドネシア共産党」によって演出されたものだったと発表し、PKI撲滅の動きが始まりました。

 

この動きの中、スハルトたちがPKIの非合法化を求めるも初代大統領スカルノが「事件はPKIの一部の者が起こしたことで、PKI自体を否定することはない」と拒否したことから、その後徐々に求心力を失っていき、1968年3月12日に第二代目スハルト大統領が就任すことになるのですが、その間に行われたPKI党員の大規模な逮捕や虐殺によって、膨大な数の人が裁判も経ないまま残酷な手口で殺されていきました。

 

その犠牲者は少なくとも50万人、一説によると200万人以上にのぼるとも言われていて、正確な数字はもはやわからなくなっています。さらにこの事件の闇が深いのはPKI党員を殺すことが正義という風潮の中、この虐殺が主に民間人の手で行われたこと、さらにはそれを世界も見て見ぬふりをしたという点です。

 

深刻な人権問題として、世界各国が抗議の声を上げるべきだったのは明らかだが、そうした声はほとんど上がらなかった。そして今、そのことを知る人はあまりに少ない。なぜ各国は沈黙を守ったのか。それは、共産主義の浸透に危機感を抱く西側諸国にとって、当時四大政党の一つとして大きな勢力を有したPKIの一掃は非常に望ましいことだったからである。

(「インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇(中公新書)」倉沢愛子著)

 

このことについて倉沢愛子さんはこうも書いています。

 

経済的には、外国資本の導入を拒む旧体制から、開発優先の政策へと舵を切ることにつながっていく。…(中略)外資を獲得することで経済発展を目論んだスハルト時代のインドネシアに対して、日本の経済界は大規模な資本進出に乗り出し、政府は多額の経済援助を供与した。この太いパイプが、1970年代以降の日本の経済成長を牽引したことは間違いない。未曾有の惨劇の果てに、日本もこのような巨大な利益を享受したといえるが。今そうした自覚を持っている日本人はほとんどいないだろう。

(「インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇(中公新書)」倉沢愛子著)

 

そして、倉沢愛子さんはこの本の中で「人」に焦点を当て、実際の証言などを元にして改めてこの事件を紐解こうとしています。実際にPKI党員・華僑殺害を行なった人、それに関与した人への聞き取り調査などの様子も本書には書かれていて、体験がよりリアルに伝わってきます。

 

それは、映画「アクト・オブ・キリング」の中でも示されていることなので、興味がある方は是非観てみてください。

 

 

僕もまだまだ全くの知識・勉強不足で、この国に住む、またこの国で活動をさせて頂くに当たってもっともっと知らなければならないことが沢山あるので、また学んでいきいたと思います。倉沢愛子さんの本も何度も読み直さなければ。

 

というわけで、今日はほんの一部だけではあるのですが非常に簡単に「九・三○事件」について書いてみました。少しでも為になれば幸いです。

 

それでは華金、気張っていきましょう!

あなたにとって、今日が昨日よりちょっとでもいい日でありますように。

 

ひろ。